江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年7月25日説教(ヤコブ5:1-20、終りの日を待望して)

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1.富んでいる者たちの罪

 

・ヤコブ書の最終回です。ヤコブ書は富について繰り返し警告しています。最初の警告は1:9-11で、「神が祝福されているのは貧しい者であり、富んでいる者は祝福の外にあることを知りなさい」という言葉です。二回目の警告は2:6b-7で、「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」と語ります。三回目が今日読みます5章の言葉です。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたはこの終わりの時のために宝を蓄えたのでした」(5:1-3)。

・イエスは「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」と言われました(マルコ10:24-26)。富そのものが悪いというよりも、富が往々にして不正な手段によって得られること、また富は人を貪欲に導きやすいことからくる警告と思われます。ヤコブも朽ち果てるまで富を蓄え続ける人間の罪を告発します「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した」(5:4-6)。

・富の偏在、貧富の格差は常に人間を苦しめてきました。日本においては大量の食材が賞味期限切れとしてコンビニエンスストアで捨てられ、それがあれば命をつなぐことが出来る人々が飢餓のために死んでいます。成長企業の役員には桁外れの報酬が支払われ、他方、派遣や請負労働者は低賃金で、ワーキングプアと呼ばれる人々は、いくら働いても生活保護以下の収入しか稼ぐことが出来ない状況にあります。また技能実習生という形で外国人労働者を受け入れながら、使い捨ての低賃金労働を強制し、多くの技能実習生が実習先から逃亡しています。これはあるべき社会の姿ではありません。ヤコブの語ることは現代社会でも大事な告発です。

・神学者の栗林輝夫氏はそれを「富の偏在のマタイ効果」と呼びます。「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって、『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)というマタイ効果であり、一部の企業家がとてつもない報酬を得る一方、大勢の若者がワーキングプアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつて日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしまった」(福音と世界、2014年1月号)。ヤコブが怒る状況が今の日本の国にもあるのです。

 

2.忍耐と祈りと

 

・ヤコブは金持ちに収奪され、抵抗することの出来ない貧しい人々に、忍耐を勧めます。「主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」(5:7-8)。これはこの世に対するあきらめの勧めではありません。「新しい天と新しい地を待ち望む」キリスト者は世を変えるために努力します。しかし自分たちの力だけでそうしようとすれば必ず挫折します。かつて社会改革運動に入っていった多くのキリスト者たちは信仰を失って挫折して行きました。「主を待ち望まない」社会運動は限界を持つことを知るべきです。

・試練と忍耐の時に人はつぶやき始めます。しかし信仰者はつぶやかないし、不平も言いません。今、主に導かれてこの場に立っていることを知るからです。ヤコブは語ります「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(5:9-11)。「人間による救い」が断たれた所から、「神による救い」が始まることを知る者は、試練と忍耐の中で待つことができるのです。

・ヤコブは「常に祈り、讃美せよ」と勧めます。祈りと讃美はキリスト者の最大の献げ物です。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」(5:13)。また「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい・・・その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主に癒していただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(5:14-16)。お互いのために祈り合うことができるのもキリスト者の特権です。ヤコブは手紙の最後で「教会から離れていった人々のためにも祈りなさい」と勧めます「あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(5:19-20)。キリスト教信仰は共同体信仰です。信仰も教会なしには成り立たない。だから教会を離れていった人たちが戻ってくることが出来るように、痛みを持って祈るのです。

 

3.神の国を求めて

 

・ヤコブを初め初代教会の信徒たちは、「まもなく神の国」が来て、この不公平な社会は終わり、耐えた者は報われると希望していました。「兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい・・・あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです・・・裁く方が戸口に立っておられます」(ヤコブ5:7-9)。しかし終末、神の国は来ませんでした。今日の招詞に第二ペテロ3:8-9を選びました。次のような言葉です「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。終末の遅延は初代教会にとって大きな課題でした。

・「終末(神の国)は来なかった、その代わりに来たのは教会だった」と、深井智朗は著書「神学の起源」の中で語ります。「『イエスは神の国の到来を説教したのに、やってきたのは教会だった』という言葉がある。この指摘は、キリスト教宗教の誕生が、実はイエスの教えとは全く違った方向に展開したことを示している。『終末の遅延』という意識と、神学の誕生は深く結びついている。イエスはラディカルな終末論を唱えて、十字架につけられた。イエスの弟子たちの最初の『神学的な努力』の一つは、『この世の終わりはまだ来ていない』という現実について説明することだった」。

・神の国の代わりに私たちに与えられたものが教会でした。では教会とは神の国なのでしょうか。東京バプテスト神学校の公開講座「バプテスト史を学ぶ」で、教会の必要性が議論された時、一人の受講生は次のようなレポートを書きました「無教会主義に立つ内村鑑三は、教会とは『エクレシア』すなわち『見えない教会』と考え、見えない教会が制度化・組織化して『見える教会』になった時、信仰が化石化して内実が失われてしまうと考えた。他方、人間は弱いので、信仰が十分に根付かないとすぐに枯れてしまう。信仰のための土壌を耕し、そこに種を蒔き、水や肥しを与えて育てるためには、まずは制度による教育が必要で、それが『見える教会』の役割であろう。教会という組織・制度から離れて、健全なキリスト教信仰が、人のうちに根付くことは困難だ。教会を取り去られると、よほどしっかりした人でない限り、信仰が揺らぐ。大部分の普通の人にとっては、「見える教会」は不可欠だ」。

・私たちは本質的には「見えない教会(神の国)」の会員ですが、実際は地上の「見える教会」に所属し、教会が地上にあるゆえに様々な問題を抱えながら教会生活を送ります。どうすれば「見える教会」の私たちが、本来の「見えない教会」の業をすることができるのでしょうか。イエスは私たちに、「目の前に困窮と苦しみの中にいる人がいれば、その人に愛の責任を負うよう」に命じておられます。ヤコブ書が私たちに教えるのはそのことです。それにもかかわらず自己愛を超える出来事が教会に起こっていません。信仰が自己義認(私の救い)に留まっています。「私たちの救い」こそ、イエスが教えられたことです。

・信仰によって義とされるという十字架の救いがイエスの犠牲によって起こっているにもかかわらず、人の側に応答としての行為が現れていません。私たちが「救われた」といいながら、何もこの世の生活が変わらないとしたら、私たちは救われていないかもしれない。ヤコブが語るように、「実践のない信仰は死んでいる。死んだ信仰は人を救い得ない」のです。イエスは言われました「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10:39)。私は命を得ているのか、御言葉を行う人になっているか、真剣に考えるべき課題がここに提出されています。

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