1.山上の説教を改めて聞く
・今日、私たちは山上の説教を読みます。復活されたイエスは弟子たちとガリラヤで会い、彼らに「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19b-20a)と言われました。命じておいた教え、イエスが語られた言葉、その中核にあるのがマタイ5章から始まります「山上の説教」です。イエスは多くの人々の病気や患いを癒され、悪霊を追い出されました。イエスの力ある業を見て、大勢の群衆がイエスのもとにやってきます。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」(5:1-2)。群衆の中から、イエスに日常的に従う者たち、弟子たちが起こされて行き、その弟子たちが今、イエスの言葉を聞いています。山上の説教は直接的には弟子たちに対して、どう生きるべきかをイエスが語られたのです。その弟子たちを囲んで群衆もその場にいます。弟子の役割はイエスから聞いた教えを群衆に伝えることです。私たちもイエスの弟子として、御言葉を伝える役割を与えられています。
・山上の説教は八つの祝福から始まります。文頭に「幸いなるかな」が置かれ、次々に祝福が展開されて行きます。何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスの元に集まってきた人々も幸福を求めていました。ある者は長い間苦しめられている病気を治してもらいたいと願い、別の人は食べるものもない貧乏から解放されたいと集まって来ました。彼らはいずれも「現在の情況さえ変われば、この苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれる」と思っていました。しかし、イエスは、「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いなのだ。あなた方は悲しんでいる、悲しんでいる者こそが幸いだ」と言われました。あなたを今、苦しめている貧困や病が取り除かれることが救いではない。取り除かれてもまた新しい災いや苦しみが来るだろう。神があなたになぜ、このような苦しみや悲しみを与えて下さるかを考え、与えられた病や貧困を感謝して受けることこそ救いではないのかとイエスは問われます。イエスの教えはこの世の教えとまるで異なります。
2.八つの祝福は何を語るのか
・イエスは弟子たちに祝福の言葉を語られます「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:3)。直訳すると、「幸いなるかな、霊において貧しい人」となります。ここでの「貧しい」には、ギリシャ語「プトーコス」が用いられています。「極貧者、物乞い」を意味する言葉で、イエスは「極度の貧しさの中に生きる人々」を祝福されています。イエスは貧困の中にある人々の現実を直視し、深い憐れみに心満たされて語られます「貧しいあなた方こそ天の国に招かれている。神はあなた方の貧しさを知っておられる」と。イエスは貧困で苦しむ者たちに、「無条件の幸い、天の国はあなた方のものである」と語られています。
・次の祝福は悲しみです。イエスは言われます「悲しむ人々は、幸いである」(5:4)。「悲しむ人」、原文では「悲嘆にくれる人」とあります。死んだ人を悼み、愛する者を慕って狂うばかりに嘆く人が祝福されています。人は悲しみを通して真実を知ります。人は順調な時には何も考えませんが、逆境に追いやられて初めて、「あなたはなぜこのような悲しみをお与えになるのか」と神に問い、神から言葉をいただき、そのことを通して神の慰めと憐れみを知ります。それ故に彼は心折れることはない、だから幸いなのです。
・三番目の祝福は「柔和な人々は、幸いである」(5:5)。柔和と訳されている原語は「プラウス」で、「謙遜な」という意味です。塚本虎二はこの部分を「踏みつけられてもじっと我慢している人」と訳します。この世界には、ものを言うのは「力」だという信仰が根強くあります。「大人しくしていたらやられる、武器を多く持つ者が勝つ」、この考えが攻撃と反撃、テロと報復の悪循環を生んでいます。イエスが私たちに教えられたのは、「殴られても殴り返さない。踏まれても踏み返さない」、という生き方です。「そういう方法でなければ本当の平和は来ない」とイエスは教えられます。20年前のイスラム過激主義者のテロ攻撃に対してアメリカは報復としてアフガニスタンを空爆し、地上軍を送りましたが、20年たっても何の成果もなく、アメリカは今年、最後の軍隊を引き上げます。殴り返してもそこに平和は生まれないのです。柔和なイエスがこの世界史の中に誕生したということは、新しい世界が始まったことを意味します。
・6節では「飢え渇く人は幸いだ」と語られています。マタイはここでは「義に飢え渇く人」と形容し、本来の教え「今飢えている人は幸いだ」(ルカ6:21a)を修正しています。当時のユダヤでは、民衆の多くは土地を持たない小作農であり、収穫の半分以上が小作料として取り上げられました。小作人の手元に残るものは少なく、豊作時でさえ食べていくのがやっとで、凶作になれば飢え、病気になれば死ぬばかりの生活でした。彼らはひたすら救い主を待ち望み、生活が変えられる日を待望していました。その彼らにイエスは「あなた方は満たされる」と語られました(ルカ6:21b)。マタイはイエスの祝福を解釈して伝えます「飢えて死のうとする人が食物を求めるように、渇いて死のうとする者が水を求めるように、神の正しさを慕い求める人は幸いである。なぜなら求める人にはそれが与えられるからだ」と。
・五番目の祝福は「憐れみ深い人々」に与えられています。イエスは、「人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6:14-15)。憐れみ深い人とは隣人の過ちを赦し、非難しない人です。何故ならば自分も過ちを起こす存在であることを知るからです。主の祈りは祈ります「私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」、この祈りをいつも祈りたいと願います。
・六番目の祝福は「心の清い」人々への祝福です(5:8)。心が清い、原語は「カサロス」、混じり物のない、純粋なという意味を持ちます。「心の清い者だけが神を見る」(5:8)、私たちは打算なしに神を求めているのでしょうか、それともどこかで見返りを求めているのでしょうか。パウロは語りました「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(第一コリント13:3)。隣人を愛する者だけが神に出会うのです。
・七番目の教えは「平和を実現する者への祝福」です(5:9)。祝福されているのは、「平和を愛する人」ではなく、「平和を創り出す人」です。それは波風を立てないために問題を回避する人ではなく、問題に直面し、それと取り組む人のことです。解釈者バークレーは語ります「人と人の間に正しい関係を造り出す人は幸いだ。彼らは神の業を行っている」。
・八番目の教えは「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(5:10)。最後の祝福はイエスの言葉というよりも、マタイの付加とされています。イエスの時代には弟子たちに対する迫害はありませんでしたが、紀元80年頃のマタイの教会は、「キリストの名のゆえに、ののしられ、迫害され」ました。マタイは自分の教会の人びとへの慰めの言葉として5:10-12を付加したとされています。
3.イエスの言葉と私たち
・今日の招詞にルカ6:20-21を選びました。ルカ版・山上の説教です「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。ルカ福音書では「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20)と語られ、「飢えている人々、泣いている人々」等、社会的・経済的困窮者に対する憐れみが直接的に語られています。そして後半では「飢えている人々は・・・満たされる。泣いている人々は・・・笑うようになる」(ルカ6:21)と状況が変わることが預言されています。ルカはイエスの言葉を人の世の常識の中で解釈し、新しい世に期待するように語り直します。他方マタイはイエスの言葉を霊的に受け止めています。
・イエスが言われた「貧しい者は幸いである」という言葉を、ルカは「今、貧しい者も豊かになるから幸いである」と解釈しました。他方マタイは「神の前に貧しい者はそのままで幸いなのだ」と理解しました。マタイの解釈の方がイエスの真意に近いのではないかと思います。イエスの言葉はイエスご自身の宣教体験から生まれています。イエスと弟子たちは、町から町へ、村から村へ、放浪しながら宣教を続けられ、パンを食べることの出来ない日もあったし、寝る場所がなく野宿されたこともあった。その中で神はイエスと弟子たちを保護され、パンを与えて下さった。その神への信頼をイエスはここで語られています。「生きるために必要なものは父なる神が与えて下さる。その神を信頼して生きよ」と。この信頼に生きる者が、マタイの理解のように、「神の前に貧しい者」、「自分に寄り頼むものが一切ない者」です。福音書によれば、イエスの宣教に積極的に応答したのは、取税人や遊女、異邦人等の社会的に疎外されていた人々であり、反発したのはパリサイ人やサドカイ人等の支配階級でした。満足している者は神を求めず、満たされていない者は求めます。そして求める者には命が与えられ、求めない者には与えられないとしたら、満たされていない者(貧しい者、飢えている者、泣いている者)こそが、祝福されるのは当然なのです。
・イエスは「貧しい人々は幸いである」と言われ、「悲しむ人々」を祝福され(5:4)、「飢え渇く人々」を祝福されました(5:6)。イエスは、現在がどういう情況であれ、それを神から与えられた祝福として受け取る時、人は満たされると言われます。「心の貧しい者」はこの世に究極の救いがないことを知るから、世の栄誉や成功を求めません。「悲しむ者」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣くことが出来ます。「柔和な者」は自らの力に頼らないから、他者に対する憎しみや報復も生れません。「餓え渇く者」は神の支配を待ち望み、その日は来ると信じる故に、現在の不正に負けません。
・「コロナ禍による打撃は、世論に耳を傾ける民主主義的な国ほど大きくなる傾向があるのではないか」、そう問いかける文章を、イエール大学助教授の成田悠輔さんが朝日新聞に寄稿した(21年4月)。「民主主義にウイルスが襲いかかっていると嘆いたのはニューヨーク・タイムズ紙。民主主義の象徴・米国の中心ニューヨークで、犠牲者の遺体が続々と並べられた光景は記憶に新しい。対照的なのが、早々とコロナ封じ込めに成功し三密なパーティーに興じる中国の若者の姿である。中国は日常を取り戻して久しい。米国の失敗と中国の成功。これは民主主義が呪われた制度だと暗示しているのだろうか。なぜ民主主義は失敗するのか。EUの委員長を務めたジャン=クロード・ユンケルはこう発言した『何をすべきか政治家はわかっている。すべきことをしたら再選できないことも』。この言葉が亡霊のように世界を覆っている」。そのような現実の中で私たちはイエスの言葉を読んでいます。
・モルトマンの「希望の倫理学」を翻訳した福嶋揚は語ります「死ねばすべてが無に帰すと考える人間にとって、天に宝を積むことは無意味で抽象的なことである。天の富に関心を持たない生は、地上における富の最大化を目指し、地上だけで完結しようとする。そのような生の最も支配的な形態は資本主義である」。彼は続けます「その資本主義が今終末期を迎えている。(その中で)聖書の物語は地上の生の意味を、自己の富を最大化することではなく、社会の周辺へと追われ苦難の中にある人々を友にすることにある」(福嶋揚、終末論と資本主義)。「神の前に貧しい者こそ幸いである」、この言葉を今日、胸に刻むことが出来れば、私たちの人生は大きく変わって行きます。世の常識を超えたイエスの言葉の中に真実があると信じる時に、世界は変えられていきます。