江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年3月21日説教(マタイ26:36-46、ゲッセマネを超えて)

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1.ゲッセマネにて

 

・今私たちは受難節にあり、イエスの受難物語の焦点の一つがマタイ26章「ゲッセマネ」での出来事です。最後の晩餐を終えた後、イエスと弟子たちはゲッセマネに向かいます。ゲッセマネ、アラム語「オリーブの油搾り」の意味で、オリーブ山のふもとに油を絞る設備があったところからその名がつけられました。イエスたちは以前にもよくこの場所に来ておられました。そのゲッセマネでイエスは祈り、苦しみ、悶えられました。人々はこのイエスを見て、嘲笑するかもしれません。「ソクラテスは不当な判決を受け入れ、毒薬を飲んで死んでいった。それなのにイエスは死を前におののいている」。初代教会の人々も、死を前に「嘆き悲しむイエス」をありのままに記述するこのテキストに、戸惑いを覚えたと思われます。

・物語は31節から始まります。最後の晩餐を終えた弟子たちは、祈るためにゲッセマネに向かいますが、その途上で、イエスは弟子たちに「あなたがたは私を見捨てて逃げ去るだろう」と予告されます。「今夜、あなたがたは皆私につまずく」(26:31)。イスカリオテのユダは晩餐の途中で出て行き、祭司長の手下たちを連れてイエスを捕らえに来るでしょう。その時、あなたたちは逃げ去るだろうとイエスは言われました。それに対してペテロは反論します「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません・・・たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:33-35)。「ほかの弟子たちも皆、同じように言った」とマタイは記します。

・園に着くとイエスは三人の弟子を連れて、奥深くに進んで行かれます。マタイは記します「イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、その時、悲しみもだえ始められた」(26:36-37)。私たちが驚くのは、イエスが自分の弱さを弟子たちにお隠しにならなかったことです。私たちが苦しみの中にある時、普通はその苦しみを人から隠し、自分の力で何とかしようと思います。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じますが、イエスは自分のもだえ苦しむさまをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われます「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」(26:38)。福音書の示すイエスは私たちの祈りの助けを必要とされる方なのです。

・「私は死ぬばかりに悲しい」、イエスはうつぶせになって祈られます。「うつぶせになる」、万策尽きた者の懇願する姿勢です。イエスは叫ばれます「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」(26:39)。しかし、父なる神からは何の応答もありません。イエスは続けて祈られます「しかし、私の願い通りではなく、御心のままに」。私たちは理解できない不条理を受け入れることはできません。なぜ今この苦しみが、与えられるのか、かつて私たちもイエスの声に合わせて、父なる神に祈ったことがあります「わが神、わが神、どうして」(27:46)。しかし、何の応答もなく、沈黙が深まります。

・イエスは弟子たちの所に戻られます。イエスと祈りを共にするはずだった弟子たちは、睡魔に負けて眠り込んでいます。1時間前、ペテロはイエスの面前で語りました「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません。あなたのために死ぬ覚悟はできています」と。そのペテロが今は眠り込んでいます。イエスは人間の弱さ、限界を知っておられるゆえに、ペテロを叱責されません。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(26:41)。

・弟子たちはイエスと祈りを共にすることが出来ませんでした。神からの応答もありません。イエスは神に捨てられ、弟子たちにも捨てられて、まったくの孤独の中に残されています。イエスは再び園の奥の方に進み、祈られます「父よ、この杯を私から過ぎ去らせて下さい」。依然として神からの応答はありません。イエスはその沈黙の中に神の意思を知られました。だから祈られます「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(26:42)。イエスは苦闘の末、死という不条理を受け入れられました。この苦難のただ中に神が共におられることを信じられたのです。

・弟子たちはまだ眠り込んでいます。イエスは弟子たちを起こさないように、祈りを続けられます。三度目の祈りを終えて帰ってきても、弟子たちは眠り込んだままです。イエスは弟子たちを起こして言われます「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が来た」(26:45-46)。下の方から、ユダに率いられた捕り手が来るのが見えたのでしょう。もうイエスには迷いはありません。三度の祈りを通してイエスは神の御心を知られた、誰かが苦しむことが必要であれば私が苦しんで行く。その決意が「立て、行こう」という言葉の中に現れています。

 

2.私たちを赦される主

・この物語を通して私たちは人間の弱さを見ます。最初の弱さはイエスの弱さです。イエスは「死を前におののかれた」、多くのキリスト教批判者はイエスの弱さを責めます。しかし私たちはイエスの弱さに、慰めを覚えます。イエスは神のロボットではなかったのです。私たちもまた、苦しみの杯を飲まなければいけない時があります。重い病に冒された、生涯をかけた事業が破綻に追い込まれた、愛する人が亡くなった、人生の波風の中で、私たちは「もだえ苦しみます」。その時、私たちはイエスさえおののかれたことを知り、慰められます。イエスは、私たちのために弱さを隠されなかった。だからこそ、この人は私たちの友となられるのです。

・ペテロはイエスが「今夜、あなたがたは皆私につまずく」(26:31)と言われた時に「たとえ、みんながつまずいても、私は決してつまずきません」と答えました。そのペテロはイエスが血の汗を流して祈っておられた時、眠りこけ、捕り手たちが来た時は逃げ出しました。イエスが大祭司の屋敷に連行された時、ペテロは後を追いますが、屋敷の人々に「おまえもイエスの仲間だ」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と三度否認します(26:74)。マタイは記します「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(26:74-75)。ペテロは自分の弱さに泣いたのです。

・ヨハネ福音書によれば、イエスが十字架で死なれた後、弟子たちは故郷ガリラヤに帰って、元の漁師に戻り、そこに復活のイエスが現れます。イエスはペテロが裏切ったことを一言も責められず、ただペテロに「私を愛するか」と三度聞かれます。ペテロは告白します「主よ、あなたは全てをご存知です。あなたは私の弱さを知っておられます。私はかつてあなたを裏切ったし、これからも裏切るかも知れません。しかし、私がどんなにあなたを愛しているかをあなたはご存知です」。そのペテロにイエスは「私の羊を飼いなさい」と命じられます(ヨハネ20:17)。かつてイエスを裏切った自分に群れが委ねられた事を知った時、ペテロは生れ変りました。ペテロは弱い人間でした。しかし、弱さを知り、祈り求め、主によって強くされた。私たちもこのペテロにならうことができると希望を持ちます。

 

3.ゲッセマネを超えて

 

・今日の招詞にヘブル5:2を選びました。次のような言葉です。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」。私たちは、何かあれば、主を裏切り、見捨てて逃げかねない存在です。私たちがユダであり、ペテロなのです。イエスへの裏切りはその後の時代においても繰り返し起こっています。初代教会はやがてローマ帝国の各地に広がって行きますが、時々のローマ皇帝の宗教政策により、ある時は迫害され、ある時は容認されました。キリスト教に寛容な皇帝の下では信徒は増え、否定的な皇帝の下では信徒は散らされていきました。迫害があると多くの信徒が棄教し、迫害が止むと教会に戻ってくるという出来事が歴史上繰り返し起こっています。

・「目を覚ましている」ことができない私たちがそこにいます。「心は燃えていても肉体は弱い」、その私たちのために「キリストは弱くなられた」。イエスは苦しみの中でも自分を閉じられず、弟子たちに弱さを見せて下さった。「大祭司イエスは、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」、まさにそこに救いがあるのです。

・人は苦難を通して神に出会います。イエスは人として本当に苦しまれた故に、「神は復活という応答を与えて下さった」と私たちは信じます。へブル書は記します「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)。だから私たちも教会の中で、お互いの弱さを隠さず、「祈ってほしい」と言うことができます。教会はお互いの弱さを受け入れることのできる唯一の場所です。教会にあって、私たちは神の赦しを受け、神との平和をいただきます。神は弱い私たちを招き、神の業に参加することを許されています。

・今回、思いがけず、私自身にコロナウィルス感染という苦難が与えられました。コロナウィルス感染の問題は今までは誰かの苦しみであっても、私の苦しみではありませんでした。しかし、この私に感染症という苦しみが与えられ、年度末を前にした多忙な時に10日間の絶対入院という出来事が与えられました。「神様、何故ですか」と毎日つぶやいていました。その時、与えられた御言葉は「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」でした(第二コリント12:9)。私が退院したのは3月19日金曜日でしたが、その前日18日にS兄弟の妹さんが突然御逝去されたとの思いがけない知らせが飛び込んできました。何という不幸の積み重ねでしょう。私たちは教会の交わりを必要としています。教会は一人一人では耐えきれない重荷を共に受け入れ、担い合うこととの出来ることのできる唯一の場所です。教会はそれぞれのゲッセマネを担いながら参加する場所です。そして出来事はゲッセマネでは終わりません。ゲッセマネを超えて十字架の出来事があり、十字架を超えて復活の喜びがあるのです。この復活の喜びを知るゆえに、私たちはゲッセマネを超えて、受難を超えて希望に生きていくことができるのです。

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