1.すべての民族を裁く
・マタイ福音書では24章から「終末(世の終わり)」の出来事の記事が展開されます。神殿の崩壊が語られ(24:2)、世の終わりのしるしが語られ(24:15~)、準備をしない者は滅ぶ(24:36~)との警告が語られます。25章ではそれを喩えの形で話されて行きます。「花婿の到来を待つ十人の乙女の喩え」(25:1-13)、「主人不在中の僕の心構えタラントンの喩え」(25:14-30)が語られ、その締めくくりとして最後の審判の物語が語られていきます(25:31-46)。終末に何が起きるか、どうすべきかが語られて行きます。
・本日の聖書個所は最後の審判の物語です。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に山羊を左に置く」(25:31-33)という言葉で始まります。最後の審判は選別から始まります。マタイ25章では人が羊と山羊に譬えられ、羊飼いが羊を右、山羊を左に分けます。右は正しい者たちの座、左は不正な者たちの座です。裁き主である王はイエスです。イエスは善き羊に譬えられた正しい人たちを祝福し、彼らのため用意されている神の国を受け継ぐよう語ります「そこで、王は右側にいる人たちに言う『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい』」。彼らの生きざまが神の国を受け継ぐにふさわしいと王が認めたのです。その生き方とは、弱者への援助と、迫害され牢に入れられている人たちへの慰問です。裁き主は語ります「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」。この喩えは初代教会が置かれた苦難と迫害の時代を反映しています。マタイは10章で類似のキリストの言葉を紹介しています「私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10:42)。ですから直接的には貧困に追い込まれ、小さくされている同胞キリスト者が「小さな者」となるのでしょうが、マタイは全世界に福音をのべ伝えることを命じていますから、まだキリスト者になっていない、
「困っている人全体」が、「私の兄弟姉妹」となるのでしょう。
・王に誉められた人たちには善い行いをしたという意識すらありません。彼らは王に尋ねます「いつ私たちがそのような善い行いをしたでしょうか」。彼らには困っている人々を助けるのは当然だという善意しかなく、だから誉められようなどとは思ってもいません。彼らはまさに「右の手のしたことを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)というイエスの教えを実行しています。彼らの答えを聞いた王は答えます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」。
・次に王の左側に分けられ、山羊に譬えられた人々の審判が始まります。王は最初から「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と厳しい言葉を彼らに突きつけます。永遠の火とは焼き尽す滅びの火です。しかし、彼らは悪を行った意識はなく、王が飢え、渇き、宿がなく、着る物がなく、病気のとき、牢獄にいた時に、「世話を断ったことはない」と言い張ります。王なるイエスは彼らの偽善を追及し、困窮の中にいる者らを助けなかったのは私を助けなかったのと同じであると彼らを叱られます。最後に王の判決が下り、悪しき山羊には永遠の罰が与えられ、善き羊には永遠の命を与えられます。
2.最後の審判の記事から学ぶもの
・25章後半の教えによれば、最後の審判はその人の生前に行為に従ってなされます。その基準は、「どれだけ隣人を愛したか」です。どれだけ功績を積んだのか、どれだけ社会で活躍したかは問われていません。救いとは何かを獲得することではなく、どれだけキリストに従ったのかで決まると言います。その行動規範は簡単です「空腹の人に食べさせ、喉が渇いた人に飲ませ、旅人をもてなし、病人を見舞い、牢獄にいる人を慰めよ」、誰でもできること、身近な人々に仕える行為です。
・この教えで人助けをした人は、自分が善行をしている意識さえなく、それどころか、隣人を助けることはむしろ当然と考えています。助けないではおられないから助ける、彼らは自然に心から湧き出た行動をしているのです。それこそが「私にしてくれたことだ」とイエスは言われます。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」という言葉は、多くの人々を動かして来ました。レフ・トルストイはこの言葉を読んで、「愛あるところに神あり」(靴屋のマルティン)という民話を書きました。トルストイは目の前にいる、困っている人こそイエスなのだと気づきました。
・マザー・テレサはある時、次のように語りました「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」。(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私たちの歩む道」)。「御聖体」、キリストの体の意味です。隣人のために何かを為した時、それは「キリスト」したことだおいうことをマザー・テレサの証しは語ります。
3.隣人のために働くには
・今日の招詞に、第一コリント13:4-7を選びました。次のような言葉です「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。有名な愛の賛歌です。この愛を私と読み替えた時、私たちの生き方が導き出されます「私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。私は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。このような人はいません。しかし生涯をかけて、この生き方を求めた人が、マザー・テレサです。
・マザ-・テレサは「身近にいる人をまず助ける」よう勧めました。彼女はノ-ベル平和賞を受賞した時に、記念晩餐会の開催を断っています。「晩餐会はいりません。そのお金を貧しい人に使って下さい」。マザ-・テレサは、「大切なことは、遠くにいる貧しい人や、大きな援助をすることではなく、身近な人に対して、愛をもって接することです」と語っていました。1997年マザ-・テレサはインドのカルカッタの、自身が創立した修道院で、「もう息ができない」の一言を残して天に召されました。マザ-の生涯は、インドの貧しい人たちに捧げ切った87年でした。組織神学者の松見俊先生は語ります「1997年夏のほぼ同じ時期に、ダイアナ妃とマザー・テレサが亡くなった。ダイアナ妃は人に愛され、幸せになりたいと願い、それを追い続け、それが得られないままにこの世を去っていった。一方、マザー・テレサは人に愛を与えたい、幸せを与えたいと願い続けた。マザー・テレサの生涯は満たされた生涯だったのではないかと思う」。
・マザ-・テレサは1981年、82年、84年と三度来日しています。最初の来日の時、インドの貧困者への援助を申し出た日本の企業に対し、彼女は語りました「日本人はインドのことよりも、日本の中の貧しい人々への配慮を優先すべきです。愛はまず身近なところから始めるべきです」。そして語りました「豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも愛されないという心の飢えはないでしょうか。誰からも必要とされず、愛されていないという心の貧しさはないでしょうか。物質的貧しさより心の貧しさはより深刻です。心の貧しさは、一切れのパンを食べられない飢えより、もっと貧しいことです。日本の皆さん、豊かさの中にも貧しさのあることを忘れないでください」。
・マザー・テレサは言います「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、自分は誰からも必要とされていないと感じる事なのです」。この隣人愛の実践が社会を変えていきました。前にご紹介しましたように、によれば、ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、死者は数百万人にも上り、人々は感染を恐れて避難しましたが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬したそうです。イエスがそうしなさいと語ったからです。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせたと考えられています。歴史学者スタークは語ります「キリスト教が改宗者に与えたのは人間性だった」と(ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」)。
・この事は現在、日本を含めて世界中が苦しんでいるコロナ感染証の蔓延の問題について、教会は何が発信できるのかを考えるべきであることを示します。前にご紹介した「コロナウィルスからの手紙」は強烈です。「あなたはただ自分の生活を続けていた。どれだけの憎しみがそこにあろうと、毎日何人が殺されようと、地球があなたに話そうとしていることを気にかけることより、最新のiPhoneを手に入れることの方が大切だった。でも今、私はここにいます。そして、私はあなたに熱を与え、呼吸障害を与え、弱さを与えました。そして今、あなたには自分の人生で大切なものは何かを考える時間が出来ました」。今回、近親者がウィルスに感染して、私自身が農耕接触者になり、先週の礼拝は牧師室からリモートでメッセージをお届けしました。たしかに「最新のiPhoneを手に入れることの方が大切だった」自分の在り方を振りかえる機会になったと思います。出来ることは少ないかもしれませんが、例えば私たちが毎月「フードバンク献金」を行い、自分たちで食料品を届ける行為は最新のiPhoneを手に入れるよりも価値があります。イエスが語られた言葉「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)、黄金のような輝きを持つ言葉だと思います。