江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年11月7日説教(第二コリント2:14-3:6、キリストの香り・キリストの手紙)

投稿日:2021年11月6日 更新日:

 

1.キリストの香り

 

・11月は第二コリント書を読んでいきます。コリント教会はパウロが設立し、育ててきた教会でしたが、パウロがコリントを去った後、エルサレム教会の推薦状を携えた伝道者たちが現れ、パウロの説いた福音とは「異なる福音」を説いたため、教会内に動揺と混乱が生じていました。彼らは「キリスト者も割礼を受け、律法を守らなければ救われない」として、パウロの説く福音「人が救われるのは神の恵みのみであり、割礼を受け律法を守ることによってではない」を否定しました。さらに彼らは「パウロは生前のイエスに従った使徒ではないし、さらにかつては教会の迫害者だったではないか」とパウロを非難しました。それに対してパウロは弁明の手紙を書きます。それが第二コリント書2章14節から始まる部分です。彼は書きます「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせて下さいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(2:14-15)。

・パウロのイメージしているのは、ローマ軍の凱旋行進です。ローマは世界各地を征服し、勝利を得た軍隊は首都で凱旋行進をして、その勝利を祝いました。行進の最初には捕らえられた敵の王族や将軍たちが鎖に繋がれて歩かされます。彼らは行進が終われば投獄され、処刑されます。次に音楽を奏でる者たちが続き、さらに芳しい香りを放つ香炉を振りながら祭司たちの一団が通ります。そして最後に馬に引かせた戦車に乗る将軍が、兵士たちを従えて行進します。祭司たちが振りまく香りは、将軍と兵士たちには「勝利と生命の香り」であり、他方戦争捕虜たちにとっては「死の香り」でした。

・だからパウロは書きます「(私たちは)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2:16)。「福音も同じであり、受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる」。パウロは先にも語りました「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(第一コリント1:18)。福音はそれを聞く者に、「根本的に今までの罪の生活を変えるのか、それとも今まで通り生きるのか」の選択を迫ります。そしてコリントの人々はパウロの言葉を聞いてその生き方を変えた。だからあなた方に福音を伝えた私たちは、あなた方に対して、「キリストの香り」という役割を果たしたのだとパウロは語っているのです。

 

2.キリストの手紙

 

・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判します。「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(2:17-3:1)。エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていないから偽使徒だ」と攻撃しました。それに対して、パウロは「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」(2:17)と語ります。

・パウロは「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)。牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状です。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた、その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語るのです。彼は次に驚くべきことを語ります「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語るのです。このことは、私たちに次のことを示します。「全てのキリスト者は、キリストの香りであり、キリストの手紙なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。

・ロバート・ベラーという宗教社会学者は、その著「善い社会」の中で、アメリカ・メソジスト教会の一人の牧師の言葉を紹介しています。牧師は語ります「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでもよい。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13章5節は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」(ロバート・ベラー「善い社会」、p207-208)。

・キリストの手紙は人の生き方を変えます。ドイツの聖書学者ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という本の中で述べます「イエスが来られても社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった。彼らが伝えたのは、『愛と和解のヴィジョン』だった」。

・キリストにある愚者は次から次に現れました。アフガニスタンで殉教された中村哲兄(福岡・香住ヶ丘バプテスト教会)は語ります「裏切られても裏切り返さない。その誠実さこそが人を動かす」。彼は周りの人たちに「善意」という贈り物をし続けました。彼の座右の名は「一隅を照らす」でした。人の善意が相手の悪をも照らし、変えていく。彼もまたキリストの愚者になりました。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力があるのか、そのような体験的神学の学びを通して、私たちは訓練され、聖書が「生きて働く」福音になっていきます。現代の私たちは利害損得(お金)を宗教としています。しかし聖書は利害を超えるもの、神を愛するように隣人を愛することを求めます。

・キリストにある愚者として、キリストの手紙として生きるように私たちは召されています。日本でも多くの人々が貧困や差別の中で苦しんでいますが、彼らは教会に救済を求めません。ある人は語ります「神は愛だと言うけれど、いったい神は私のために何をしてくれるというのか。神は何もしてくれないではないか。愛の神の存在などとても信じられない」。危機の中にある人々に、教会はキリストの福音を発信して、「生きる勇気」を与えうるか、それが課題です。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力を持つことを体験したからこそ、私たちはキリストの福音こそ宝であり、力を持つと語り続けるのです。

 

3.土の器に宝を持って

 

・今日の招詞として第二コリント4:7を選びました。次のような言葉です「ところで、私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。ここには二つのことが語られています。一つはパウロが「土の器」と非難されていた現実です。コリントの人々は、福音を伝えるパウロの履歴や外形に注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。もう一つは、それにもかかわらず、パウロの語る福音(神の言葉)は「宝」といえるほどの価値を持つことです。だからパウロは伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しません。「私はみすぼらしい土の器かもしれない。あなた方は私を見て、土の器には何の価値も無いというだろう。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現される。牧会者を見るのではなく、牧会者を遣わされた方を見よ。神がこの人を私の牧者として遣わされたと信頼する時、牧会者の言葉は神の言葉になる」と。

・パウロはさらに語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、過酷なものでした。パウロは自分の設立した教会から受け入れを拒否された伝道者なのです。当時のパウロは「失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者」のような惨めな状態なのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。

・コリント教会と伝道者パウロの間の信頼関係が崩れています。それにもかかわらず、パウロはコリント教会の人々を「あなたがたこそ私の推薦書、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく、心の板に書かれたキリストの手紙」と呼びます。コリントの人々は教会の主導権を巡って争い、誘惑に負けて不品行を行い、金持ちと貧しい人は分断していました。それでも彼らは教会から離れず、主に従って生きたいともがいていました。それは赤裸々な人間社会の現実の中にあってもなお主から、教会から離れない私たちと同じです。私たちもまた「キリストの手紙」であり、世の人は私たちを見て、「キリストはどなたか」を知るのです。パウロは語ります「私が金や銀の器であれば、もっと多くの人が教会に招かれたかもしれない。しかし、私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ない。私の弱さの中にこそ主の栄光が示される。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(12:9)。

・パウロは喜怒哀楽の激しい人で、誤解を生みやすい言行がありました。彼は雄弁な説教者ではなかった。しかしパウロは全てを捨ててコリント伝道のために尽しました。そして今も教会からの誹謗中傷に耐えながら、涙ながらに手紙を書いています。このパウロを動かしているのは神です。彼は語ります「私は信じた。それで、私は語ったと書いてある通り、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(4:13)。私たちもパウロと同じ「信仰という宝物」を神からいただきました。それを入れている容器である私たちは、落とせば割れる土の器ですが、いただいているのは宝物なのです。ですから私たちはキリストの香りになりうるし、キリストの手紙になりうるのです。

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