江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年10月31日説教(第一コリント15:12-22、42-49、我は復活を信ず)

投稿日:2021年10月30日 更新日:

 

1.復活と体のよみがえり

 

・10月は第一コリント書を読んでいます。今日の個所、第一コリント15章には「死と復活」という重いテーマが書かれています。私たちにとってこの世で一番大切なものは何でしょうか。イエスは、それは命であると言われました「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ 9:25)。その通りだと思います。だから、私たちは教会に集まり、神の言葉を聞き、永遠の命を求めます。しかし、私たちは「永遠の命」、死後の命を信じきることが出来ませんから、言葉によって命が与えられません。命が与えられないから、信仰が私たちの生活を揺り動かさない。コリントの人々も同じでした。だからパウロはコリントの人々に手紙を書きました。その手紙の核心部分が今日読む第一コリント15章です。

・この箇所には、「死と復活をどのように考えるか」が、記されています。パウロはコリントの教会の人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。しかし、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方から、人の肉体は滅びると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ことが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。

・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。パウロは語ります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。イエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだイエスが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。

・パウロは語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の基底にある「イエスの死からの復活」は、歴史的な事実としては認証できず、あえて表現すれば「弟子たちの共同心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだら眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された、キリストが初穂であり、私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。

 

2.私たちは死んだらどうなるのか

 

・「復活を信じることの出来ない人生を考えてみなさい」とパウロは訴えます。人は「死ねば終わり」だとすれば、現在を楽しむしかありません。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32)、そのような人生は死刑囚が刑の執行前にご馳走を食べるのと同じで、何の喜びもありません。「どうせ死ぬのだ」、そのような言葉を聞くために、あなたがたは教会に来たのかとパウロは怒ります。現代の日本人は、死を出来るだけ考えないように、現在の生を楽しもうと生きています。おいしいものを食べ、楽しく、愉快に暮らすのが、日本人の求める幸福です。しかし、それは死を見ようとしないだけの生活であり、仮に死が牙をむいて家族の一員に襲い掛かれば、たちまち崩れます。

・私たちは「自分が死ぬ存在であること、人生が死によって限界付けられていること」を認めようとしない存在です。パスカルは語りました「人間は死と悲惨を癒やすことが出来ないので、自分を幸福にするためにそれらを考えないようにした」。別な人は語ります「私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活とよんでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではないではないか」。私たちはいつも死を他人事ととらえます。死とは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとしない。死について考えないとは現在の生についても考えないことです。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。

・コリントの人々はパウロに反論しました「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えて、パウロは種の例えを語ります。「種は土に蒔かれて形をなくし、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、新芽が生まれてくる。種と新芽は違う形をとるが、それは同じ命、同じ種から生まれる。蒔かれた種が「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じないのか」とパウロは語ります。自然界には実に多くの相違した肉があり、身体があります。「朽ちる、卑しい、肉の身体で蒔かれる」(15:42-43)、それが人間の死です。その人間が「朽ちない、輝かしい、力強いもの」としてよみがえる、それが復活です。種が一旦死んで新しい芽として芽生えてくるように、肉の身体が死に、霊の身体で生き返る。その時、障害を持つ身体も、年老いた身体も、輝く身体としてよみがえる。その希望を持つことが出来るとパウロは語ります。よみがえりの身体は今の身体とは違うものになるでしょう。それにもかかわらず、種と植物が同じ生命であるように、死後の身体も、同じ存在、私は私、あなたはあなたとしてよみがえる。神はキリストをよみがえらせられたように、私たちをも生かして下さる。この希望を信じる時のみ、人は死の恐怖から解放されます。

 

3.復活信仰と日々の生活

 

・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選びました。次のような言葉です「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。ベタニヤ村のラザロが死んだ時、イエスが姉マルタに言われた言葉です。マルタは、「信じます」と答えましたが、実は信じることができていません。ラザロが死んでもう4日も経っているのです。葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣きます。死んだ人が、もう私たちの手の届かない世界に行ってしまったからです。イエスは「泣く必要はない」と言われました。しかし、マルタが泣き、その妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられました。死が依然として人々を支配しているのを見て、憤られたのです。そしてマルタに言われました「墓の石を取り除きなさい」。マルタは答えます「四日も経っていますからもうにおいます」。イエスはマルタを叱責されます「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」(ヨハネ11:40)。人々が石を取り除いたのを見ると、イエスは墓に向かって呼ばれました「ラザロ、出てきなさい」。死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。

・多くの人はベタニヤ村で起こった出来事を、歴史的出来事と信じることが出来ません。近代合理主義の影響を受けた私たちには、復活は信じることが難しくなっています。復活を信じることが難しい理由の一つは、命についての理解に混乱があるからです。イエスは言われます「私を信じる者は死んでも生きる」。ここで言われている命は肉体的な命のことではありません。ギリシア語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。復活をビオス、生物学的命の問題と考えるゆえに、人は混乱します。ラザロが生物学的によみがえってもたいした問題ではありません。彼は再び死ぬからです。しかし、大事なことはラザロが生き返ったことではなく、ラザロのよみがえりを通じて、マルタが命である神に出会ったことです。復活はゾーエー、人格的な命の問題です。

・肉体は滅びます。「すべての肉は共に滅び、人は塵に帰るであろう」(ヨブ記34:15)と聖書は言います。遺体を火葬した後では骨だけが残ります。その骨も砕かれれば、塵になります。人は塵ですから塵に帰ります。死はビオス、生物学的命を滅ぼします。しかしゾーエー、人格的な命を滅ぼすことはありません。イエスは言われました「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。

・長い間ホスピス治療に従事し、2,500人の死を看取ってきた柏木哲夫氏は「コロナの時代にいのちを問う」という番組の中で語られます「人間には漢字の『生命』と、ひらがなの『いのち』の二つがあり、どちらも大事にしなければならない。そして漢字の生命は瞬間敵なものだが、ひらがなのいのちは永遠性を持つ、人は体と心と魂のバランスがとれた時、良い死を死ぬことができる」(2021年10月10日NHK「心の時代」)。まさにビオス(生物学的命)とゾーエー(人格的な命)を区分することが大事なのです。

・私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスを信じる時、状況は変わります。何故ならば、死んだラザロがよみがえったことを通して、神は死者をも生かされることが示されました。私たちもまた死んでも生きる存在に変えられる希望を持つことが許されました。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。そして信じた時、死は地上の生を終えた後の休息の場、新しい人生の始まりと変わるのです。

・パウロは語ります「兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)。私たちの肉体は朽ちます。クリスチャンも、そうでない人も同じく死にます。しかしキリストを信じる者はよみがえります。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、ここに私たちの信仰がかかっています。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されています。「死を忘れるな」、そして「死を恐れるな」、これが聖書の語るメッセージです。

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