江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年11月28日説教(第二コリント12:1-10、弱い時にこそ強い)

投稿日:2021年11月27日 更新日:

 

1.弱さの中に恵みが

 

・第二コリント書は、パウロが自分の創立した教会の信徒にそむかれ、拒否されていることをあからさまに示す書簡です。パウロは教会の離反に苦しみ、人々が「本当のイエス」、「本当の霊」、「本当の福音」に立ち戻ってほしいという願いの下に、手紙を書いています。本当のイエスとは「十字架で死なれた苦難のイエス」であり、本当の福音とは「イエスのように弱さを受け入れる時に救いが来る」ということです。しかしパウロに反対する人たちは、自分たちの強さや神秘体験を誇り、「パウロは神秘体験をしていないから使徒ではない」とか、「パウロは異言を語れないから聖霊を受けていない」と批判していたようです。そのためにパウロはやむなく、自分の神秘体験を語り始める、それが今日読みます第二コリント12章です。

・パウロはこれまで自己の神秘体験を語ってきませんでした。神秘体験は自分だけの体験であり、他者と共有できるものではないからです。パウロはかつて語りました「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(第一コリント14:18-19)。他者に理解されない言葉(異言)は福音=良い知らせではない。神秘体験も同じく、自己だけの体験であり、それは他者に役立つものではないから、パウロは語りませんでした。しかし、ここでは止むを得ず、パウロは自分の神秘体験を語ります「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(12:2-4)。

・「一人の人」、パウロのことです。「14年前」、手紙が書かれたのが紀元57年前後ですから紀元43年頃、パウロがアンテオケ教会で活動していた時の出来事です。具体的に何があったのかは私たちにはわかりません。パウロはある時、天に引き上げられて、そこで主に出会うという体験をした、それはパウロには忘れられない体験でしたが、彼はそれを無益として他者に語ることをしませんでした。そのような体験を通して伝道者は自分の召命を確信しますが、自分を振り返った時、目に付くのは肉の身の弱さです。弱さを通して神を誇ることに、パウロは導かれていきます「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。そしてパウロは彼の人生を決定づけた、ある出来事を語ります「私の身に一つの棘が与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(12:7-8)。

・「棘」、ギリシャ語スコロプス、拷問や十字架の意味です。パウロは拷問にかけられたような激しい痛みを伴う深刻な病気を抱えていたようです。聖書学者のシュバイツァーは、パウロは癲癇だったのではないかと推測します。突然に発作を起こし、人前を転げまわるような痛さを持つ病です。それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていました。彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこの棘を取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。

 

2.聴かれない祈り

 

・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「棘」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「棘」が与えられます。私たちはパウロと同じようにそれに感謝出来るでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。内村は語ります「聴かれざる祈祷の著しき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」。そしてパウロについて、この第二コリント12章の体験を語り始めます「神は新約の忠僕であるパウロの祈祷をも斥けられた。パウロにもまた一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではないと思う。彼が伝道に従事するに当って、彼は大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところが主の答は何であったか・・・『我が恩恵汝に足れり』というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、それを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の成就を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。

・新約学の織田昭は語ります。「パウロの『棘』が実際に何だったのか、この文章からは特定できないが、恐らく、これは、後にコリント書を読む多くの読者が、自分の持つ弱さや悲しみと引き比べながら、それぞれなりに慰めを受けられるように、聖霊がお導きになったのかも知れません。お互い弱い肉の人間として、病気の不安も、老いの悲哀も、事業の挫折もあります。もし私たちがお互い、自分の弱さを恥じないで共感できたら、私たちはみんな同じように主キリストだけを頼りにして、自分の弱さを克服できますし、その弱いままで強く変えられるのです。パウロの最後の言葉はこうでした。『私が弱い時、まさにその時、私は強くなれる』」(織田昭・エリニカから)。

 

3.キリストのために苦しむ

 

・今日の招詞にフィリピ1:29を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。パウロはコリント教会のために、手紙を書き、訪問し、指導しました。コリント教会はパウロに背き、パウロは裏切られた痛みに耐えています。しかしパウロがその苦難を、「キリストのために苦しむ」と受け入れた時、苦難が「恵みに変わる体験」をしています。ある人は語ります「水の冷たさは熱い所で初めてわかる。水の有り難さは水のない所で知れる」。苦難を通して、私たちは神が共にいてくださることを知り、そこから生きる力をいただきます。

・教会には誤解や争いが絶えません。パウロもまた、あまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒ります。しかし彼は教会に対する責任を放棄しません。神の恵みである信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故です。その人間的対立の苦しみの中から、人の心に迫る手紙が生まれてきました。第二コリント書は苦難の中から生まれてきた書であり、コリント教会の裏切りがこの宝物のような手紙を生んだのです。

・生涯寝たきりの人生を送った水野源三さんは、4冊の詩集を出しましたが、第一詩集の表題は「わが恵み汝に足れり」、第二コリント書から取られた表題です。その中に、「主よ、なぜ」という詩があります。「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞこのことをわからせたまえ」。人生の現実には納得出来ないものがあります。「私の恵みはあなたに十分である」と言われても、困る時があります。その中で神の名を求めていく。そして「力は弱さの中でこそ発揮される。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう」と語れるようになった時、私たちの人生は素晴らしいものになります。自分が弱いことを認めた時、もうそれ以上恐れることは起こらないからです。

・聖書にはパウロが唱えた「十字架の福音」という理解とは別に、「成功の福音」とも読める箇所もあります。「神を信じて従えばこの世の成功は約束される」という信仰は、申命記を始めとした旧約聖書の信仰で、アメリカや韓国では人気の信仰の在り方です。しかし、それはイエスともパウロとも異なる信仰の在り方です。私たちの主イエスは決定的に弱い方でした。彼は弱い者、病に苦しむ者、世から排斥された者の側に立ち、彼自身も強い人々により殺されていきました。その弱いキリストを神は起こされた。パウロが言うように、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:4)。

・キリストの弱さを身にまとうことにより、神の強さが与えられる、これが私たちの信じる福音であり、それゆえに私たちもまた「弱さを誇って生きる」のです。10年前に起きた原発事故で、放射能に汚染された福島の村々ではいまだに住民の帰還は難しい場所があり、仮設住宅の中で「どうしたら良いのか」と思いあぐねている人々がいます。コロナウィルスの感染蔓延の中で、職を失い、「明日はどう生きたらよいのか」と思い悩む人がいます。この世界は不条理と理不尽に満ちています。そのような中で、私たちはキリストから「目を覚ましてやるべきことを行う」ことが命じられ、「教会に何ができるかを追い求めていく」ことが求められています。国際基督教大学の魯恩碩(ロウンソク)先生は語ります「この世界は不条理と理不尽に満ちている。しかし、私たちには『なぜ』と問う力がある」(「この理不尽な世界でなぜと問う」)。「神様、なぜですか」と問い続ける中で、新しい生き方が示される。パウロや信仰の先達たちが私たちに告げるのはそういうことではないでしょうか。

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