江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年11月14日説教(第二コリント4:1-15、この土の器に)

投稿日:2021年11月13日 更新日:

 

1.パウロの困難

 

・第二コリント4章7節「私たちはこのような宝を土の器の中に入れています」はとても印象的な言葉です。ここには二つのことが語られています。一つはパウロが「土の器」であると非難されていた現実です。もう一つはそれにもかかわらず、パウロの語る福音は「宝」といえるほどの価値を持つことです。今日は第二コリント4章をこの二つの側面から学んでいきます。

・第一の側面はパウロが受けていた激しい批判です。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道に奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛するキリスト者の群れです。しかしパウロの福音理解を異端とするエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロの伝える福音は私たちが承認していない教えだ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。

・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなった。何故聞いてくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心に委ねます」(4:1-2)。エルサレム教会はいまだにユダヤ教の強い影響下にあり、彼らは異邦人もユダヤ人のように割礼を受けなければ救われないと主張していました。それに対して、パウロは「異邦人が割礼なしに救われないなら、キリストは何のために死なれたのか」(ガラテヤ2:21)と反論します。「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。

・しかし、どのような言葉も、心を閉じた人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人を変えうる」と信じるゆえにパウロは伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられ、使命を与えられた人間です。やるべきことを自覚している人は落胆のままでは終わりません。

 

2.この土の器に

 

・手紙を書いた当時のパウロは(紀元58年頃)、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動はうまく行っていません。コリントの人々はパウロの人間性に注目し、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私は土の器に過ぎない」と語ります。しかし私が伝えている福音は宝物なのだと彼は語ります「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。

・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しない。パウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。しかしパウロは語ります「途方に暮れても失望しない」(4:8)。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼には失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。

・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。彼は「十字架で殺されたイエスの体を身にまとっている」と言うのです。コリントの人々はパウロを失敗者、廃棄される土の器のように見棄てました。しかし、キリストも十字架上で見捨てられ「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。

・しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。注解者バークレーは語ります「クリスチャンの最大の特徴は、倒れないことではなく、倒れてもそのたびにまた立ち上がることだ。打たれないことではなく、打たれても決して敗北しないことだ」(バークレー聖書注解コリント書p254)。パウロは語ります「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。

 

3.希望の福音

 

・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器である人により持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死を宿命づけられた命は日々衰えていきます。人は年を取れば体力も気力も低下し、死ねば土に帰ります。しかし、「内なる人」、キリストと共にある命は衰えることがありません。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。

・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。キリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。私たちはこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。

・OECDの「幸福度調査」(Better Life Index,2012年)によれば、日本人は経済的に豊かなのに幸福度は低いという結果が出ています。経済的豊かさが必ずしも国民を幸せにしない。社会学者の吉中季子氏は「幸福度と社会的孤立度とは強い相関を持つ」と考えています(名寄市立大学社会福祉研究紀要)。社会的孤立度を図る指標「自分以外の人と一緒に過ごす時間が殆ど無い」という人が日本では15.3%、これはOECD諸国平均(6.7%)の二倍以上、この孤独感が日本人の幸福度を大きく低下させています。日本では、かつてあった地域共同体や会社共同体が崩れ、また家族共同体も崩れ始め、人と人の絆が低下しています。都道府県別調査では福井、富山、石川等比較的に地域共同体が強い地方が幸福度上位を占め、東京や大阪の大都市圏はかなり低くなります。

・人は一人では行きていけない、誰かのサポート無しには生きていけない、そのサポートが極端に低くなり始めているのが現在の日本です。神学者の栗林輝夫氏は述べます「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)という格差社会であり、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域(海外)に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。現在の日本は格差社会になってしまった。その中で日本の教会は何を発信できるのか」。

・その危機の中にある人々に、教会はキリストの福音を発信して、「生きる勇気」を与えうるか。それが私たちの課題です。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力を持つのか、もしなければ教会の役割はない。私たちはキリストの福音こそ宝であり力を持つと信じるゆえに宣教を続けます。私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。彼は失望から立ち上がる力が与えられました。「十字架で殺されたイエスの死の体を身にまとって」です。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。イエスの力は教会の交わりを通して与えられます。「神ともにいます」、「あなたは決して一人ではない」という言葉を発することの出来る場所こそ教会です。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていきます。

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