1.終末を迎えるにあたっての現在の生き方
・テサロニケ教会への手紙を読み進めています。今日が5回目です。テサロニケ教会はユダヤ教のシナゴークから分離した教会で、教会の信徒たちは周囲の異教徒やユダヤ教会からの迫害の中にあり、主イエスが一日も早く来られて、その苦しみの時を終わらせてくれるように祈っていました。パウロも主の再臨の日=終末を待望していますが、それがいつかを彼は求めません。終末は神の出来事であり、人間には知ることは許されないからです。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」(5:1)。終末がいつ来るか、私たちにはわかりません。ただ神が人間の歴史に介入された、それがイエスの十字架死と復活であり、その「復活によって終末の時は始まった」とパウロは理解していました。パウロは語ります「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」(5:2-3)。
・今日は、イエスの十字架による死、復活、昇天、そして再臨、それらの出来事が、私たちの人生とどのように関わるのかを考えてみます。私たちにとって最初に来る終末は私たちの死の時です。人は70年か、80年の時を生きたら、死にます。それが生物体としての宿命です。しかし信仰者は死を恐れる必要はありません。何故なら、信仰者にとって、死は「眠り」でありであり、「目覚め」の時が救いの時だと信じることが出来るからです。死を支配しておられるのは、サタンではなく神です。だから安心しなさいとパウロは書き送ります「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(5:4-6)。
・「神は私たちを怒りにではなく、救いに定められた」、だから終末は滅びの日ではなく、救いの日です。信仰者にとって、終末=死とは「キリストと共にいる生活に入る」ことであり、心配したり、歎いたりする時ではなく、備えて待ち望む時です。パウロは語ります「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(5:9-11)。
2.終末をどう迎えるか
・パウロは自分たちが生きている間に終末、キリストの再臨があることを信じていました。その再臨を前にして、信徒はいかに日常を過ごすべきか、彼は「主にあって労苦している人を重んじ、敬いなさい」と語ります。「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き、戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」(5:12-13)。教会は「神の家族」、「神の共同体」です。もし教会内に、怠けている者、務めを果たさない者がいれば戒め、落胆している人、気落ちしている人がいれば励まし、信仰の弱い人には配慮するようにパウロは語ります。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(5:14)。
・ここで大事なことは、教会は裁きの場ではなく、赦しと和解の場であることです。教会の奉仕をしようとしない人、文句ばかり言う人、評論はするが働こうとしない人が教会内にいるかもしれません。パウロは、「彼らを恨むまず、彼らに仕えなさい。報いを期待せずにやるべき事をしなさい」と語ります。「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」(5:15)。そしてパウロは語ります「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです(5:16-18)。「いつも」、「絶えず」、「どんなことにも」喜べと言われています。人生においては喜べない時もあります。喜べない時も喜ぶ、それが信仰です。
・第一テサロニケの手紙では、兄弟と言う言葉が14回も用いられ、神という言葉が36回使われています。教会は「神の家族」であり、教会員は相互に兄弟姉妹です。アウグスティヌスはその著「神の国」で二つの愛を述べています「二つの愛が二つの国を造ったのである。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地の国を造り、他方、自己を軽蔑するにいたる神への愛が天の国を造ったのである」と。復活の信仰に立つということは、神の国の住人とされた者として生きることです。それは自己愛から解放された生き方、自分のためではなく、他者のために生きる生き方です。教会は地の国の真ん中に立てられた神の国です。この神の国に暮らしながら、私たちは終末の時を待つのです。
3.いざ終末(死)が来た時
・今日の招詞にフィリピ1:21-24を選びました。次のような言葉です「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。人は必ず死にます。信仰者にとっても死は恐怖です。詩編記者は語ります「教えてください、主よ、私の行く末を、私の生涯はどれ程のものか、いかに私がはかないものか、悟るように」(詩篇39:5)。死が近づいてくると信仰者もおののきます。
・日本基督教団西片町教会の牧師で、教団の総会議長を務めた鈴木正久牧師は「私は死を前にして、恐れてもだえ、おののいた」と語ります。彼の残した遺言テープがあります。彼は肝臓ガンのために1969年、56歳で天に召されましたが、その鈴木牧師が最後の病床から教会員にあてたテープです。鈴木牧師は語ります「この病院に入院した時、私には、『明日』というのは、治って、もう一度、今までの働きを続けることでした。そのことを前にして、明るい、命に満たされた『今日』というものが感ぜられたわけです・・・(ところが)娘からある日、『実はお父さん、もう手のつくしようがない』ということを聞いたときには、本当に一つのショックでした・・・今まで考えていた『明日』がなくなってしまった。『明日』がないと『今日』というものがなくなります。そして急にその晩は暗い気持ちになりました。寝たのですけれども胸の上に何かまっ黒いものがのしかかってくるような、そういう気持ちでした・・・ その時祈ったわけです。今までそういうことは余りなかったのですけれど、ただ『天の父よ』というだけではなく、子どもの時自分の父親を呼んだように『天のお父さん、お父さん』、何回もそういうふうに言ってみたりもしました・・・そうしたらやがて眠れました」。「明日」がないと「今日」がない、その通りだと思います。
・しかし鈴木牧師はパウロの手紙を読んで立ち直りました。彼は語ります「明け方までかなりよく静かに眠りました。そして目が覚めたらば不思議な力が心の中に与えられていました・・・夕方、怜子にピリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら、非常に喜びにあふれてほかの信徒に語りかけているのを聞きました。聖書というものがこんなに命にあふれた力強いものだということを、私は今までの生涯で初めて感じたくらいに感じています。パウロは、生涯の目標というものを自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、と述べています。そしてそれが本当の『明日』なのです。本当に輝かしい明日なのです・・・死をも越えて先に輝いているものである、その本当の明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」(鈴木正久著作集から、一部要約)。私たちが死ぬということは、死を超えてイエス・キリストに出会う日、喜びの日であると彼は知りました。非常に正直な遺書、私たちを慰める遺書です。
・私たちは、イエスさえも死を前にして、恐れおののかれたことを知っています。マルコ福音書は記します「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(マルコ14:32-34)。これから起こるであろう受難を前に、「イエスはひどく恐れてもだえ始められた」とマルコは記します。私たちが驚くのは、イエスが自分の弱さを弟子たちにお隠しにならなかったことと、聖書がそれを隠さずに記していることです。
・私たちが苦しみの中にある時、その苦しみを人に知られまいと隠し、自分の力で何とかしようと思います。人は他者に対して弱さを見せることを嫌がり、自分を閉じるのです。しかし、苦しみを解決できない時、その苦しみは人を押しつぶします。イエスは自分の苦しみをありのままに弟子たちに示され、共に祈ってほしいと言われます。「私は死ぬばかりに悲しい」、この言葉を弟子たちも聞き、彼らも共に祈り始めます。イエスは祈られます「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」(マルコ14:36a)。「死の杯を取り去って下さい、今死ぬことの意味が理解出来ません」とイエスは祈られたのです。しかし、父なる神は何の応答もされません。イエスは神の沈黙の中に、その御心を見られました。だから彼は続けて祈られます「しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36b)。理解できないことであっても、御心であれば受け入れていく、この祈りを導かれたのは父なる神です。ここに救いが始まっています。鈴木正久氏の遺言、またイエスのゲツセマネが教えるのは、「私たちは死を前にして、恐れおののいても良い。恐れおののきながら、祈り続ける時に神は応えて下さる」という確信です。この確信をもって、私たちは終末の時を待ち、備えるのです。