1.今も生きておられるイエス
・ヨハネ福音書を読み続けています。ヨハネは13章からイエスが最後の晩餐の席上で言われた言葉を記録します。13章にはイエスが弟子たちの足を洗われた記事が、14章にはイエスがいなくなった後聖霊が与えられ、その聖霊が弟子たちを守ることが約束されます。14章の最後には「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)というイエスの言葉が記録され、それは18章につながります「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(18:1)。14章は18章に連続しており、15~17章の3章は後代の福音書編集者の挿入部分と推測されます。ヨハネ福音書の編集者は、何故あえてこれら三つの章を福音書に挿入したのでしょうか。
・ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年ごろと推測されていますが、当時の教会はユダヤ教からの迫害の中にありました。紀元66年ユダヤはローマへ反乱を起こしますが、ローマの圧倒的な軍事力の前にユダヤは敗北し、紀元70年には、ローマ軍はエルサレムを占領し、神殿を破壊し、以降エルサレムへのユダヤ人の立ち入りは禁止されました。ここにユダヤは国家としては滅び、エルサレム神殿を中心とした祭儀宗教であったユダヤ教は、壊滅的な打撃を受けます。その後、ユダヤ教はパリサイ派を中心とした律法宗教に軸足を移していきます(ヤムニヤ会議)。ユダヤ教指導者たちは、民の律法違反が亡国の悲運を招いたとして、律法への厳格な忠誠を求め、背教者や異端者を会堂から追放する事を決定し、キリスト教徒は異端として激しい迫害を受けるようになったのです。ヨハネ16章2節はその事情を反映しています「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。キリスト教徒は捕らえられ、殺され、社会から排除される時代が始まり、この迫害の中で、ヨハネの教会では多くの信徒が脱落して行きました。それに危機感を抱いた編集者が福音書の中に15~17章を挿入し、教会員を励ましていると考えられます。
・動揺する信徒たちに福音書編集者はイエスの言葉を伝えます。それが15章から始まる言葉です。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(15:1)。「私はまことのぶどうの木」、この言葉は「まことではない、偽りのぶどうの木」があることを前提にします。「迫害の中で教会から離れてユダヤ教に戻る、それは命の源であるキリストから離れて、偽りのぶどうの木につながることなのだ。ぶどうの枝が木から離れれば枯れて死ぬように、あなた方もキリストから離れたら死んでしまう。だから離れるな」と編集者は叫んでいます。果樹の栽培においては剪定が不可欠であり、実を結ばない枝は切り落とされます。ユダヤ教からの迫害は父なる神がなされる剪定作業なであり、その剪定を通して、御霊の実を結ぶのに妨げになる世の思い煩いが削がれ、より豊かな実を結ぶようになると福音書は語ります。教会の頭はキリストであり、牧師でも信徒でもありません。教会はたとえ不完全であっても、この地上に神がお建てになった、「天の御国」なのです。
・ヨハネの教会では、ユダヤ教正統派から異端宣告を受けると、人々が次々に脱落していきました。本当にイエスに結びついていなかったからです。しかし危機に直面してもなおイエスをキリストと告白し神を信じる者は、「豊かな実を結ぶ」(15:2)とヨハネは言います。だからつながり続けなさいと命令されます。この「つながる」という言葉は、ギリシャ語の「メノー」です。ヨハネ15章1-10節の短い文章の中に、11回も用いられています。イエスが父につながることによって父と一体であるように、弟子たちもイエスにつながって一体性を保ち続けることによって、信仰の実を結んでいくのです。人間はイエスから離れた時、命と力の源泉であるぶどうの木から離れ、離れた者は「枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(15:6)とヨハネは警告します。
2.「互いに愛しあいなさい」と言わざるを得ない状況下での福音
・イエスは言われます「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。私の愛に留まりなさい。私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる」(15:9-10)。ここの「留まる」という言葉も、ギリシャ語「メノー」です。「私の愛に留まりなさい」、「私につながっていなさい」というメッセージがここでも響いています。そしてイエスは言われました「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」(15:12)。
・迫害の中で教会のある者は捕らえられ、ある者は脱落していきました。次は誰が脱落するのか、教会の中に疑心暗鬼の状況が生まれていました。だから福音書編集者は「互いに愛し合いなさい。あなたがたは主にある兄弟姉妹ではないか」と言わざるを得なかったのです。そして、その愛の根拠はイエスが私たちに示された愛です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。「友のために自分の命を捨てる」、イエスは私たちのために十字架で死んで下さった、そして復活された。私たちは復活のイエスに出会って、この人こそ「神の子」であることを知った、だからこの教会に集められた。私たちは今キリストの愛の中にいる。「仲間を疑うのではなく、愛し合おう」と編集者は言っているのです。
・私たちが愛という時、その愛は通常は男女の愛、恋愛を指します。しかし、ここに言われている愛がそのような愛ではないことは明らかです。愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。エロスとフィリアは、感情的な愛であり、その基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。だから私たちはアガペーの愛を知ることが必要です。このアガペーは私たちの中には元々ない愛です。それはイエスの十字架を通して与えられた愛だとヨハネは言います。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」(第一ヨハネ3:16)。この愛です。この愛を私たちは神からいただいるのです。
・この愛を知った私たちを、イエスは「友」と呼んでくださいます。「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(15:14-15)。弟子たちはやがてイエスを裏切り、十字架の現場から逃げ去り、復活の朝には部屋に鍵をかけて閉じこもっている、その弟子たちをイエスは友と呼ばれます。復活の日の夕べ、イエスは弟子たちの前に現れ、「あなたがたに平安があるように」と祝福されました。この赦しが、愚かで弱い弟子たちを新しい命に変えていったのです。「互いに愛し合いなさい」という愛は、赦しの上に立てられています。「愛し合いなさい」とは、「赦し合いなさい」ということなのです。
・人を結婚まで導くのはエロスの愛ですが、真の家族を形成させるものはアガペーの愛です。エロスの愛は、お互いの目を見つめあい、やがて壊れます。アガペーの愛は共に天を見つめる愛です。この愛をイエスは私たちに教えてくれました。この愛で満たされた時、その人の過去にどのような罪や過失があったとしても、一人の全き人間になります。イエスは言われました「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。この言葉を私たちは次のように言い換えることが出来ます「私があなた方を赦したように、あなた方も互いに赦しあいなさい。これが私の掟である」。
3.迫害の中での福音
・今日の招詞として、ヨハネ16:33を選びました。次のような言葉です「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。平和とは悩みのないことではありません。悩みの中でも満たされていることです。イエスを信じても、不幸や災いがなくなるわけではありません。病気は治らないかも知れないし、悩みは依然として残ります。しかし、キリストを知る人は、悩みによって打撃を受けても、やがて立ち直り、悩みが時間と共に恵みになる経験をします。何故ならば、十字架の悲しみが、復活の喜びになったことを知っているからです。
・「イエスに留まる」とは、具体的には、イエスという縦軸を持つことです。横軸だけの人生観しか持たない人は、世の中が「鬼畜米英」と言えばアメリカ人を敵視し、戦争に負けてアメリカ軍が進駐して来ると、勝者の宗教であるキリスト教の会堂に殺到し、経済成長が始まると、「教会なんかに行く暇はない」として、経済第一主義の風潮に巻き込まれて行きます。イエスに留まるとは、この世という横軸に対し、イエスという縦軸を持つこと、それが「イエスに従う道」です。
・この世が求めるのは、どういう功績を挙げたか、どのような結果を出したかです。聖書は、結果ではなく、何をしようとしたかを問います。神を神として生きる時、世の権威や権力は相対化されていきます。信仰に生きる建設会社の社員は談合を拒否し、食品会社の社員は食品偽装を内部告発するようになるでしょう。その時、「世は彼を憎みます」。信仰者の教師は、成績の良い学生を一流大学に送り込むことよりも、不登校や落ちこぼれの学生の世話に奔走する時、学校側の評価は下がります。信仰を生活の中で実践しようとすると多くの障害にぶつかります。そして、多くの人は信仰を捨て、教会から離れていきます。
・しかしヨハネは言います。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この言葉こそ、十字架で逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせた言葉であり、今日の私たちを立ち上がらせる力です。弟子になるとは、世の価値観と違う価値観に生きることであり、必然的に世と対立することになります。しかし、その私たちをキリストは励まされます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。この励ましの声を受けて、私たちはこの世を生き、この世に仕えて生きます。それがイエスの弟子として生きることです。