江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年5月17日説教(使徒言行録3:1-10、私の持っているものをあげよう)

投稿日:2020年5月16日 更新日:

 

1.足の不自由な男のいやし

 

・イエスが十字架にかけられた時、イエスに従ってきた弟子たちはみな逃げ出しました。しかし父なる神はこのイエスを死から甦らせ、復活のイエスに出会った弟子たちは再び集められ、ここに教会が誕生しました。その教会の歩みを記したのが使徒言行録です。今日は3章を中心に学んでいきます。ルカは記します「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日、美しい門という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」(3:1-2)。ペテロとヨハネが午後の祈りのために神殿に行きますと、足の不自由な人が物乞いをしていました。「運ばれて来た」、人々の往来が盛んになる午後の祈りの時に神殿に連れてこられ、物乞いして生計を立てていたのでしょう。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞います。

・ペトロとヨハネは「彼をじっと見て、『私たちを見なさい』と言った」(3:4)。「じっと見て」、ギリシャ語アテイナス、注目してみることによって、そこに人と人の関係が生まれていきます。多くの参拝者たちは物乞いの男を見ても、何の関心も抱かず、通り過ぎていきます。ペテロたちも通り過ぎれば、両者の出会いはなかったでしょう。しかし、復活のイエスから新しい命をいただいた今は、この人を無視して通り過ぎることはできません。この足の悪い人は毎日神殿の門の所に運ばれてきて荷物にように投げ出され、夕方に誰かが迎えにこない限り、そこから動くことも出来ない。彼は重い荷を背負っていました。ペテロとヨハネはイエスが他者の荷を担われたように、この足の不自由な人の重荷を担いたいと願い、「じっと見て」声をかけたのです。それに対して、物乞いの男は期待して二人を注目(エペイケン)しました。ここに「我とそれ」ではなく、「我と汝」の関係が生まれてきます。ユダヤ教の宗教哲学者マルティン・ブーバーによれば、世界は人間のとる態度によって〈我と汝〉、〈我とそれ〉の二つとなり、現代文明の危機は〈我とそれ〉という人間関係の希薄化によって生まれており、〈我〉と〈汝〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となるとします。

・物乞いの男は「何かもらえると思って」、期待して二人を見ました。しかしペテロは彼に思いがけないことを言います「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3:6)。ペテロが手を取って彼を起こすと、歩けなかった男が歩き始めました。ルカはその様子を記します「(ペテロは)右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした」(3:7-8)。「イエス・キリストの名」が生まれつき足の悪い人を起こした、生き返らせたのです。男は想像もしなかったような良いものをいただきました。だから彼は「歩き回ったり、躍ったりして神を賛美した」。これまでは歩けない故に、礼拝の交わりに参加できなかった彼が、神を賛美する群れに加えられた、その喜びが「踊り挙がって神を賛美し」(3:8)という言葉の中に込められています。

・周りにいた人々は、「それが神殿の美しい門のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」(3:10)。ペテロは人々に何故驚くのかと言います「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか・・・あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3:12-16)。癒したのは私たちではなく、イエス・キリストなのだとペテロは証しています。教会とはイエスの業を継承し、天上に今もおられるイエスの存在と働きを、この地上で為していく共同体なのです。

2.私たちにも持っているものがあるのでは

・使徒言行録2章に初代教会の働きが書いてありますが、彼らは「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」とあります(2:42-43)。初代教会は宣教し、施し、癒しました。そのことを通して多くの人が教会に加わっていくようになります。現代の教会はこの初代教会の持っていた力を失ってしまいました。今日では癒しは医者の仕事であり、施しは社会福祉事務所が担当し、教会は言葉だけの存在になりました。だから今日の教会は力を失っています。しかし、困難の中にある他者の手助けをすることは今でも重要な教会の業であるはずです。福音の宣教とは「具体的な行為、施し、癒しが伴う」行為なのです。

・私たちは言い訳をします「イエスは神の子だから奇跡を起こして人を癒せた。ペテロも復活のイエスに出会って力をいただいたから癒しができた。しかし、私たちは何も持っていないし、何も出来ない」。でもそうでしょうか。私たちにも出来ることがあるのではないか。靴屋のマルチンの物語を再度思い起こします。マルチンは妻や子供に先立たれ、辛い出来事の中で生きる希望も失いかけていました。ある日の夜、夢の中に現れたキリストが「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」と言われます。次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめました。すると、寒そうに雪かきをしているおじいさんがいて、マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまり、マルチンは出て行って親子を家に迎え、ショールをあげました。まだかまだかとキリストを待っていると、一人の少年がリンゴを盗んでいくのが見えました。マルチンは少年のためにリンゴの代金を支払い、とりなしをします。

・一日が終りましたが、マルチンが期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れて言います「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。マルチンは大勢の人を癒すことができたのではないでしょうか。そしてこのマルチンがしたようなことは私たちにも出来るのではないでしょうか。「福音は人格を通して、また言葉と行いを通して伝えられる」、それを使徒3章は私たちに語っているのではないでしょうか。

 

3.私たちは土の器であってもその中に宝を持っている

 

・ペテロは足の悪い男に言いました「私たちを見なさい」。伝道とは求めてきた人々に「私を見なさい」ということから始まります。そして見て下さった方に、「私には金や銀はないが、持っているものをあげよう」と行動する時、伝道の第二段階が始まります。私たちは持っているものがあります。素晴らしい宝物を神から預かっています。それはキリストに出会って変えられた私たちの生き方です。キリストに出会って私たちは、「主にある平安」を与えられました。私たちは挫折しても気落ちしません。挫折が私たちの進路を再検討するために与えられたと考えるからです。私たちはお金が足りなくても慌てません。「必要なものは主が与えて下さる」と信じているからです。現実がうまくいかない時、私たちは状況が変わる日が来ることを待ち望みます。「明けない夜はない」ことを知るからです。この「主にある平安」こそ、私たちが与えられた宝、信仰の力です。

・この信仰の力、キリストに出会って変えられた生き方が、なお弱さと罪を持つ私たちに与えられたことから、伝道の弱さが生じています。しかし、その弱さもまた力になります。今日の招詞として第二コリント4:7を選びました。次のような言葉です「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。イエスの業を継承した弟子たちは「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(3:16)と証しました。その言葉は多くの人に伝わり、悔い改めが起こり、バプテスマ者が与えられて行きました。キリストの名によって命じれば歩けない男が歩けるようになり、キリストの名によって祈れば、そこに救いが生じます。私たちには金銀はありませんが、私たちはイエス・キリストの名によって洗礼を受け、イエス・キリストに出会った故の信仰が与えられています。

・私たちは土の器であっても、私たちに与えられている福音は、「並外れて偉大な力」であり、それは「信じて受け入れる者を変容する力」であり、「人の思いを超える力」です。マザーテレサが行ったことは病気の治癒ではありません。彼女は語りました「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられ、ウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」 。マザーテレサは「死に行く人を看取ったのであって、治したのではない」ことに留意したいと思います。癒しは治癒ではなく、共感なのです。私たちは「治癒(キュア)」と「癒し(ケア)」を峻別することが必要です。癒しが為される時、その結果治癒したかしないかは、そんなに大きな問題ではない。「ある者は治癒されて喜び、別の者は治癒されなかったが生きる勇気を与えられた」、それが大事なのではないでしょうか。

・私たちはペテロのように、奇跡を行う力はありません。私たちが祈っても病気の人は治らないでしょうし、人々の困難が除かれることはないでしょう。しかし私たちは病気の中にも平安を見出すことはできるし、困難の中で待つことが出来ます。私たちは「どうにもならない現実の中でも希望を持ち続ける」ことのできる信仰を与えられているのです。そしてこの宝物を私たちは他者に差し出すことは出来る。その宝物は「信じて受け入れる者を変容する力」であり、「人の思いを超える力」なのです。「出来ることを行う勇気、出来ないことを断念する平静さ、何が出来るか出来ないかを識別する知恵」(ラインホルド・ニーバーの祈り)が私たちには与えられており、それこそが世の人々が癒す力を持つ私たちの宝物なのです。

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