1.あなたのパンを水の上に投げよ
・コヘレト書を読んでいます。コヘレト書には印象的な多くの言葉がありますが、その一つが今日読みます「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」(11:1)という言葉です。これが何を意味するのか、多くの解釈があります。伝統的なラビ・ユダヤ教の解釈は「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」というものです。このコヘレト11章に触発されて書かれた賛美歌21・566番「報いを望まで」も同じ考え方に立ちます。次のような歌詞です「報いを望まで、人に与えよ。こは主の尊き、み旨ならずや。水の上(え)に落ちて、流れし種も、いずこの岸にか、生いたつものを」。この賛美歌ではパンを「種」として受け止め、「穀物の種を水の上に投げよ、いつの日か、それは実を結ぶであろう」と歌われています。
・内村鑑三もこの考え方をします。彼は語ります「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず、されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである」(内村鑑三注解全集第五巻、p253)。
・「報酬や賞賛を求めずに善を行え」、これはイエスが言われたことでもあります。「返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」(ルカ6:34)。人は「自分を愛してくれる人を愛する」ことはできます。「自分に善くしてくれる人に善いことをする」こともできます。「返してもらうことを当てにして貸す」ことはできます。しかしイエスはそれでは不十分だといわれます。「罪人さえ同じことをする、あなたは返してもらうことを当てにしないで貸せ」と言われています。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。
2.将来の不明に対して最大限努めよ
・11章の基本にある考え方は、「先のことはわからない」です。1-6節の短い文章の中に、「わからない」という言葉が繰り返し出てきます。「国にどのような災いが起こるか、分かったものではない」(11:2b)。「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からない」(11:5a)、「すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない」(11:5b)。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(11:6)。中心になる言葉は5節「神の業はわからない」でしょう。「神は神であり、人は人に過ぎない」、神の隠れた創造の秘儀は、私たちがいくら知ろうとしてもわからない、そのわからない中で、「為すべきことを為していけ」とコヘレトは語ります。
・「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からない」とコヘレトは語ります。出産は神の神秘、創造の秘儀です。しかし現代人は生命科学の発展によってその業を極めたとして、出生前に羊水検査を行い染色体異常があればこれを妊娠中絶し、子供が生まれない夫婦に対しては不妊治療を推奨して「子供を生む」ように誘導しています。不妊治療の結果生まれてくる子供が年6万人に対し、闇に葬り去られる中絶の子は年20万人になります。不妊治療も大事なことですが、それ以上に子どもを中絶しなくても良いように、国が育児環境を整え、赤ちゃんポストを増やして、経済的その他の理由で子供を産み育てられない女性たちの受け皿を作ることの方が、何よりも大切ではないかとコヘレト書を読みながら思いました(ドイツでは全国に100か所以上の赤ちゃんポストがあります)。人生は神からの贈り物であり、受胎という形で人生を始め、神の霊(ルーアハ)を受けた小さな命を大切にすることは、キリスト者の務めなのです。
・さて先行きがわからない時、私たちはどうするのか。コヘレトは語ります「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」(11:4)、農作物の生育や収穫は、気候に大きく左右されます。「風が強いので今日は種蒔きはやめておこう」とか、「雨がふりそうなので収穫はもう少し待とう」とか、私たちは今日しなくてはならないと分かっていることを、口実を設けて先延ばしにします。しかしコヘレトは語ります「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(11:6)。「風が変わるのを待つ農夫のようになるな、朝でも夕でも出かけて行って種をまけ。今、何もしなければ将来に何も期待できない」と。今何かをすれば何かが生まれます。
・パウロは語ります「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(第二コリント9:6)。自分の行った努力によって報われる確率は異なってきます。リスクを取らなければ収穫はない、「あなたのパンを水に浮かべて流せ」というコヘレトの言葉はそういう意味のように思えます。現実世界の中で、「パンを水の上に投げる」はどのようなことでしょうか。元国連難民高等弁務官・緒方貞子氏は朝日新聞のインタビューの中で語ります「難民の受け入れくらいは積極性を見いださなければ、積極的平和主義とはいえない」(2015.09.24朝日新聞朝刊)。彼女は続けます「シリアから日本を目指して逃げて来る人は少ない。だけど、(日本にたどり着いた人については)もうちょっと面倒をみてあげても良いのではないか。日本は非常に安全管理がやかましい。しかしリスクなしに良いことなんてできない。積極的平和主義とは相手のために犠牲を払うことだ」。2019年度日本は1万人の難民申請に対して44人しか難民認定を認めていません(難民認定率0.4%、欧米は概ね20~40%)。日本には「報いを求めずに善を行う土壌がない」とすれば、コヘレト書を学ぶ私たちが、「パンを水の上に投げよ、難民を受け入れよ、それこそが積極的平和主義ではないか」と声を上げる必要があります。箴言は語ります「弱者を憐れむ人は主に貸す人、その行いは必ず報われる」(箴言19:17)。
3.あなたのパンを隣人と分かち合え
・今日の招詞にコヘレト9:7を選びました。次のような言葉です。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる」。食事は人間に与えられた喜びです。コヘレトは5章でも同じ意味のことを語ります。「神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ」(5:17)。人生の喜びは「労働」、「休息」、その結果としての「日常生活の充実」です。彼は8章でも語ります「太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」(8:15)。そしてこの11章ではそれを「隣人と分かちあえ、そうすれば人生の喜びは二倍にも三倍にもなる」と語ります。「あなたのパンを七人と、八人とすら分かち合っておけ」(11:2)という言葉がそうです。
・私たちは主の晩餐式でヨハネ6:1-15を読んでいます。イエスが五つのパンと二匹の魚で5千人を養われた記事です。弟子たちは目前の五千人の人を見て、また手元に五つのパンしかないのを見て、「これではとても役に立たない」とあきらめます。しかし、小さな子供は弟子たちが困っているのを見て、自分の手元にある五つのパンを差し出しました。差し出してどうなるという当てはなかったけれど、自分が食べるのをあきらめて差し出しました。イエスはそこに子供の信仰を見られました。「その信仰さえあれば神は応えて下さる」とイエスは信じ、天を仰いで感謝されました。私たちの手の中にあるもの、それがどんなに小さく僅かであっても、イエスの前に差し出され、イエスに祝福され、主の御用のために用いられる時、10倍にも100倍にも増やされていくことを物語は示唆しています。
・ドイツの神学者ボンヘッファーはこの箇所について述べています「我々が我々のパンを一緒に食べている限り、我々は極めてわずかなものでも満ち足りる。誰かが自分のパンを自分のためだけに取っておこうとするとき、初めて飢えが始まる。これは不思議な神の律法である。二匹の魚と五つのパンで五千人を養ったという福音書の中の奇跡物語は、このような意味を持っている」(「共に生きる生活」P62)。わずかなものでも一緒に食べるとおいしい。イエス時代の食卓は貧しいものでした。大麦のパンと塩とオリーブ油、飲み物としては水か薄めたぶどう酒、魚や肉を食するのは祭りの時だけでした。しかし家族が集まって食卓を囲み、感謝の祈りの後に食事をいただき、一日の出来事を話し合う、団欒の時でした。一方、現代の私たちの食卓には肉や魚があふれていますが、家族で食卓を囲むことは少なくなりました。それぞれが忙しい生活の中で、勝手な時間に、カロリーを補給するだけの食事をする、そのような家庭が増えてきた。「共に食べる」、私たちが見失ってしまった豊かさがこの物語の中にあるような気がします。
・一人で食べる食事はおいしくない、しかし誰かと共に食べる食事はおいしい。隣人との会食こそが神の贈り物です。その隣人との会食がコロナウィルスの感染拡大で出来なくなりました。飲食の場は感染危険性が高いとして今は避けられています。さらにコロナ禍で解雇や雇い止めになり、収入が減り、子供たちに満足に食べさせることができない母子家庭が増えています。私たちが毎月フードバンク献金を行い、そのお金で食料品を購入して、セカンド・ハーヴェストに食品を持ち込んで配布を委託しているのは、「隣人と共に食べるため」です。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」、この言葉の意味を私たちの生活の中でかみしめる時ではないかと思います。