1.無意味な反逆はするな
・キリスト教会では、伝統的に、11月1日が聖人の日、2日が死者の日(万霊節)とされ、全ての死者の魂のために祈りを捧げる日です。私たちの教会では、年に一回、11月第一主日に召天者記念礼拝を行い、その時召天された方たちの名前を読み上げます。その後、墓前礼拝という形で墓地を訪問し、埋葬された死者のことを思い、祈ります。それは死者のためでありますが、同時に「生きている私たち」が死を覚えるためでもあります。そして生きている私たちに、「死とは何か」、「今生かされている意味とは何か」を教えるコヘレト書を今日は読んでいきます。
・コヘレトはユダヤの知恵の教師であり、それゆえ知恵の価値を認めます。彼は語ります「人の知恵は顔に光を添え、固い顔も和らげる」(8:1b)。智恵は人間に生き方を教えます。しかし彼は同時に知恵の限界を知っています。それゆえ、無意味な自己主張はしません。彼は語ります「気短に王の前を立ち去ろうとするな。不快なことに固執するな。王は望むままにふるまうのだから。王の言った言葉が支配する。だれも彼に指図することはできない。命令に従っていれば、不快な目に遭うことはない。賢者はふさわしい時ということを心得ている」(8:2-5)。彼は「権力者に従順であれ」という、世渡り術を教えているのではありません。彼は先の7章で語りました「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう」(7:16-17)。王は生殺与奪の権能を持っており、逆らえば処罰を、場合によっては命さえも失います。彼は「無意味に死ぬな」と弟子たちに力説します。王の代わりに、「嫌いな上司」や「理不尽な夫」を入れると、それは私たちの問題になります。その時の基本は、「正しさに固執して身を亡ぼさない」こと、「無意味に逆らう愚は犯さない」ことです。
・コヘレトは王を敬いますが、絶対化しません。彼は絶対権力者が正しいとは限らないことを知っています「私は・・・太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」(8:9)。この世は「人間が人間を支配して苦しみをもたらす」時です。権力者は他者を犠牲にしてまでも己の欲を追求します。その結果、世には不正や不義が蔓延します。しかし、その王もやがてまた死んでいきます。そのような者に関わって無駄な死を死ぬなと彼は語ります「何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかかることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない・・・人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行う者を逃れさせはしない」(8:6-8)。「悪は悪を行う者を逃れさせはしない」、王の行った不正や悪は神が裁いて下さる。だからあなたは、「無意味な反逆をするな。制約の下で、為すべきことを為せ」とコヘレトは語るのです。
・これはイエスが指し示された道でもあります。イエスが捕らえられた時、弟子たちは逃げ去りました。ヨハネ福音書は弟子たちが逃げたことを批判せず、むしろ、イエスが逃げるように言われたことを強調します(ヨハネ18:8「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」)。イエスは「無駄な命を捨てるな、逃げよ、逃げることを通して、私の証人になるのだ」と言われたとヨハネは伝えています。歴史は弟子たちが逃げることを通して、イエスを証言し、教会が形成されて行ったことを示します。説教者・由木康は語ります「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ。教職者は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を与えるべきであった。信徒には、踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだった」(由木康・イエス・キリストを語る)。教えを曲げないで殉教していく信仰者の生き方があります。同時に、「死なないで逃げる」ことによって証しをしていく信仰者の生き方もあります。すべての信仰者が死んでしまったら、教えもまた死ぬ、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」(マタイ10:16)というイエスの言葉を生きるのです。
2.この空しい現実の中で何を為すべきか
・コヘレトは社会の不正を見つめます。悪人が立派な墓に葬られ、義人が人知れず死んでいく現実を見極め、「空しい」とつぶやきます。「私は悪人が葬儀をしてもらうのも、聖なる場所に出入りするのも、また、正しいことをした人が町で忘れ去られているのも見る。これまた、空しい」(8:10)。人をどのように葬るかは、人間の尊厳の問題です。16世紀に日本にキリシタンが伝えられ、短期間のうちに多くの日本人が改宗して信徒になりましたが、歴史学者たちはその原因を「宣教師やキリシタンたちが、キリストの愛の実践に基づいて、病める者を見舞い、その死を看取り、貧者であっても丁重に葬っていたことに感動した者たちが数多く、キリシタンに改宗した」(筒井早苗「キリシタンにおける死の作法」、金城学院大学キリスト教文化研究所紀要13,2010年)と語ります。今日の無縁墓地等の問題を考えるとき、キリシタン時代の宣教師の働きに改めて注目する必要がありそうです。死んだ人を丁寧に葬ることは信仰の証しであります。
・他方、この世では「悪人が丁寧に葬られ、義人の遺体が野にうち捨てられている」現実があります。コヘレトは語ります「悪事に対する条令が速やかに実施されないので、人は大胆に悪事をはたらく。罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が、なお、長生きしている」(8:11-12a)。悪に対する制裁がないために、悪が蔓延している、彼は語ります「にもかかわらず、私には分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福にはなれない」(8:12b-13)。これはコヘレトの本心ではないと思われます。コヘレトの本音は次の14節です「この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと私は言う」(8:14)。この空しさの中でどう生きるか。
・世は不条理で覆われています。その不条理の世で生きる私たちに、不条理に負けるなとコヘレトは語ります「それゆえ、私は快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」(8:15)。それは刹那的な快楽を求める生き方ではありません。「与えられているものに満足し、それ以上のものを求めるな、この世で成功しよう、出世しようと焦るな。それらは空しい。今日一日を大事に生きよ」、それがコヘレトの結論です。目に見える現実は悪が栄え、善が滅びる日常です。神が何故そうされるのか、人間にはわからない。しかし、わからなくとも、「全ては神の手の中にある」ことを、彼は信頼していきます。「私は・・・神のすべての業を観察した。まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」(8:16-17)。
3.与えられた生を楽しめ
・今日の招詞にコヘレト9:9を選びました。次のような言葉です。「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ」。コヘレトは「今、生かされて在ることを楽しめ」と語ります。それは、「与えられた現在を一生懸命に生きる」ことです。現在がどんなに価値あるものか、それは現在を失ってみて初めて分かります「あたりまえ」という詩があります。この詩を書いた井村和清氏は1979年癌でこの世を去りました。32歳の医師でした。癌が発見されたのが1977年、30歳の時で、転移を防ぐため、右足を切断しますが、癌が肺に転移して死去しました。井村和清氏が死を前に家族へ残した手記が「あたりまえ」という詩です。「あたりまえ、こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう。あたりまえであることを。お父さんがいる、お母さんがいる 、手が二本あって、足が二本ある、行きたいところへ自分で歩いていける、手を伸ばせばなんでもとれる、音がきこえて声がでる、こんなしあわせなことがあるのでしょうか 。しかし、だれもそれをよろこばない、あたりまえだ、と笑ってすます。食事がたべられる、夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる、空気を胸いっぱいに吸える、笑える、泣ける、叫ぶこともできる、走りまわれる、みんなあたりまえのこと、こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない。そのありがたさを知っているのは、それを失った人たちだけ、なぜでしょう、あたりまえ」(井村和清、「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」から)。死を知るからこそ、生きることの素晴らしさを彼は歌います。コヘレトが語るのは、この現在生きている、生かされていることの意味をみつめよということです。
・全ての人は死にます。その意味では人生は空しい。「しかし今、私は生かされている。そのことに意味がある」と考えれば空しさを克服して生きることができます。コヘレトは語ります「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せる獅子にまさる」(9:4)。人は死ねば人生をやり直せない。しかし生きているうちには、やり直しは可能です。「もし今日が人生最後の日だとしても、今からやろうとしていることを私はするだろうか」とスティーブン・ジョブズは語りました。「今なすべきことは何かを見つめて生きよ」とコヘレトは語りました。今日一日を神から与えられた贈り物として生きていくのです。
・精神科医フランクルは講演の中で人間が死ぬことの意味を語ります「ある人が訊ねた『いずれ死ぬのであれば、人生は初めから無意味ではないか』。その問いに私は答えた『もし私たちが不死の存在だったらどうなっていたのか。私たちはいつでもできるから、何もかも後回しにするだろう。明日するか、十年後にするかということが全然問題にならないからだ。しかし、私たちがいつか死ぬ存在であり、人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする。つまり、死は生きる意味の一部になっている。死こそが人生を意味あるものにする」(フランクル「それでも人生にイエスという」)。死があるからこそ、この一度きりの人生は貴重であり、死に備えて現在を生きることこそが、「準備をして生きる」ことなのです。それを確認するために私たちは毎週の礼拝に来るのです。