江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年10月25日説教(コヘレト7:1-4,13-22、自己の限界を受け入れる生き方)

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1.自己の限界を受け入れよ

 

・コヘレト書を読んでいます。コヘレトはユダヤの知恵の教師です。彼は神を信じていますが、この世の不条理を見つめた時、神のなさることがわからないことを認めます。事故や災害は繰り返し私たちを襲い、正しい者が不幸に会い、不正な者が栄える現実があります。「神がおられるのに何故」と問わざるを得ない出来事が世にたくさんあります。その中でコヘレトは語ります「神は天にいまし、人は地にいる」(5:1)、神の御業を人間がすべて知ることはできない。そこから出発する時、新しい道が開かれます。今日読みますコヘレト7章がそうだと思います。コヘレトは語ります「名声は香油にまさるが、死ぬ日は生まれる日にまさる」(7:1)。「名声は香油にまさる」、正直で誠実だという評判を人から受けることは、金銭に代え難い価値を持つという格言です。その格言をコヘレトは修正します「死ぬ日は生まれる日にまさる」。その名声も死ねば終わりではないかと。コヘレトは続けます「弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。」(7:2)。

・コヘレトが語りたいのは、祝いの席ではわからないことが弔いの席ではわかるということでしょう。コヘレトは語ります「悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」(7:3-4)。幸福な時には気づかない真実が悲しみの時にわかる、コヘレトは死を意識し、終わりという視点から、人生の意味を見出そうとします。「人は塵だから死ねば塵に帰る」(3:20)ことを知るとは、自分の限界を認識することです。さらには「死ななければいけない存在であることを知るゆえに、現在を生きることの意味に気づかされる」のです。

・キリスト教信仰も「死ぬ」ことから始まります。キリスト者は信仰の証しとしてバプテスマを受けますが、動詞バプティゾーは浸す、沈めるという意味です。水の中に沈められて古い自分に死に、水から引き上げられて新しい命に生きることを意味しています(ローマ6:4)。生きるために一旦死ぬ、「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」(7:4)と語るコヘレトの言葉は真実だと思います。

・前にご紹介したアップル創業者スティーブ・ジョブズは語りました「私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしています『もし今日が人生最後の日だとしても、今からやろうとしていることを私はするだろうか』。『違う』という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです・・・永遠の希望やプライド、失敗する不安、これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなる。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です」(米スタンフォード大卒業式スピーチから、2005年6月)。「もし今日が人生最後の日だとしても、このことをするだろうか」と問いかける時、人の生き方は真実なものになります。彼は2005年の卒業式スピーチの2年前、2003年に膵臓癌が見つかり、一旦は死を覚悟した人です。彼がipadやiphoneといった画期的な商品を開発するのはそれ以降です。死を覚悟した故に、彼は良い仕事をすることができたと思います。

 

2.不条理な人生の中で

 

・13節からコヘレトは語ります「神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ、人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と」(7:13-14)。人生には不条理があります。喜びが与えられたと思うと、その次には悲しみが与えられ、喜びは続かない。何故人生にはこんなにも苦難があるのか、人にはわかりません。その中でコヘレトは語るのは、「順境には楽しめ、逆境には考えよ」ということです。「逆境には考えよ」、不幸や悲しみこそ人生を考える好機だと彼は語ります。ヨブ記もまた素晴らしい言葉を私たちに与えます「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15、口語訳)。「神は人の耳を逆境によって開かれる」、神が曲げたもの=不条理な現実を受け入れる平静さを持った時、真実が見えてくるとヨブもまた語ります。

・15節からコヘレトは語ります「この空しい人生の日々に、私はすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」。善人が必ずしも報われず、悪人が必ずしも滅ぼされるわけではない世の現実を彼は見つめます。同時代のヨブも語ります「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ」(ヨブ記9:22)。神はなぜ広島や長崎に原爆を落とすことを許され、数十万人の人が亡くなるのを放置されたのでしょうか。神はなぜ大津波を起こして福島の原発を爆発させ、10万人の方からその故郷を奪われたのでしょうか。私たちにはわかりません。世の中には「わが神、わが神、なぜ」という現実があるのは事実です。

・コヘレトもヨブも世の現実をありのままに見つめた時、神の摂理が信じられなくなっています。しかし、コヘレトは語ります「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう」(7:16-17)。新改訳ではこの個所を次のように訳します「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか」。人が自分の正義を主張する時、自分の正しさに固執するあまり、何も見えなくなります。イエスを十字架につけたユダヤ教指導者たちは悪人ではなく、自分たちの正しさを追求するあまり、異なる存在であったイエスを死に追いやりました。コヘレトは語ります「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない・・・あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ」(7:20-22)。罪のない義人などいないのだ。人はみな、善と悪との混在した存在であり、全くの善人も全くの悪人もいない。それなのに自分の正しさにこだわる時、それはひとりよがりの独善となり、人を裁くようになります。しかし「人を裁くことができる方は神のみではないか。何故自分も罪を犯しながら、他者に石を投げるのか」とコヘレトは語ります。

・知恵の本質は自分の限界を認識することです。限界を知った人間は自分の正しさに固執しません。なぜならば自分自身が罪人であることを知り、それ故に他者の罪を告発せず、そこに平和が生まれます。私たちは神の知恵を学ぶべきです。不条理を受け入れる平静さを求めるラインホルド・ニーバーの祈りがあります。「神よ、変えることのできない事柄については、それを受け入れる冷静さを、変えるべき事柄については、それを変えるだけの勇気を。そしてその両者を見分ける知恵を与えたまえ」(高橋義文訳)。この祈りこそコヘレトの祈りです。

 

3.知恵によって生きる

 

・今日の招詞にコヘレト7:29を選びました。次のような言葉です。「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」。人は不条理にあうと、「わが神、なぜ」と神の沈黙を攻撃します。しかし、この世の不条理を生み出しているのは人間です。神は人間をまっすぐに造られたが、複雑な考え方、つまり策略をめぐらすのは人間ではないかとコヘレトは語ります。原爆を投下したのは神ではなく、アメリカ軍であり、その本当の原因は戦争を拡大した日本にあります。津波は自然現象ですが、津波の危険性のある場所に原子力発電所を築き、その爆発によって多くの人を故郷から放逐したのは人間です。「わが神、わが神、なぜ」と叫ぶのではなく、どうしたら不条理をなくすことができるのかを考えることが、あなたの役割ではないかと彼は語ります。「変えるべき事柄については、それを変えるだけの勇気をあなたたちも持て」とコヘレトは語ります。

・第二次大戦中に大勢のユダヤ人同胞が殺された時、生き残ったユダヤ人たちは「なぜ神は介入して我々を救わなかったのか」と嘆き、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来ました。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語りました。「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止める者は宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」内田樹訳、国文社(2008)。不条理は神の問題ではなく、人間の問題なのです。

・この不条理の中でどう生きるか、神学者の松木真一は「神の探求」という著書の中で語ります「現代人は神に対する懐疑を持たざるを得ない。しかしそれで良いのである。『疑うことを知らぬ信仰は死んだ信仰である』(ミゲル・ウナムーノ)、真摯な懐疑こそ信仰の確証を担保する。・・・私たちは疑いつつ、疑いきれないものに出会った時に、神を見出す」。疑いつつ神を求めていったコヘレトの生き方に惹かれるゆえんです。人は不条理に直面して初めて人生の意味が分かります。この世に不条理があるのは、私たちが人生を探求するためです。最後に詩編119編71節を読みましょう「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました」(口語訳、詩編119:71)。

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