江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年7月12日説教(第二テサロニケ1:3-12、働くことの意味は何か)

投稿日:2020年7月11日 更新日:

 

1.苦難の中にある教会への二つの手紙

 

・ペンテコステ以降、弟子たちは宣教の業を続け、福音はエレサレムを超えて異邦世界に伝えられていきました。しかし、福音宣教は決して順調に行ったのではありません。多くの異邦人たちは弟子たちの言葉に耳を傾けませんでした。パウロはギリシャのアテネで宣教しました。町には偶像の神々の像がいたるところにありました。パウロは「このような偶像神は何の力も持たない、人の手で作った彫刻に過ぎない。世界を創造された神は一人子イエスを遣わし、救いの手を差し伸べられた。私たちはイエスが復活されたのを見た。この方こそ救い主=キリストだ」(使徒17:30-31)と説教しました。しかし、アテネの人々は死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は「いずれまた聞かせてもらおう」といって、その場を去っていきました。誰も信じようとはしなかったのです。

・またパウロがテサロニケで伝道していた折は、その地に住むユダヤ人によって騒乱罪で告発されています。ユダヤ人たちは「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています・・・彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」(使徒言行録17:6-7)とパウロたちを官憲に告発しました。異邦人の冷やかな反応、ユダヤ人の妨害の中でも、福音は伝えられていきました。新しく生まれた教会も、周囲の無関心と人々の迫害の中で、苦闘していました。パウロは迫害と艱難の中にあるテサロニケ教会に二つの手紙を書いています。第一、第二の手紙です。今日は、テサロニケ第二の手紙を通して、パウロが人々に何を語ったのか、現在の私たちにどのような意味を持つのかを考えてみたいと思います。

・テサロニケ教会は迫害の中にあり、パウロは彼らを慰めるために手紙を書きました。それが第一テサロニケの手紙で、紀元50年頃に書かれました。パウロはテサロニケ教会が心配で、弟子テモテを遣わし、その報告を受けて、手紙が書かれました。「あなた方の信仰の戦いを私は知っているし、それを誇りにしています」とパウロは言い、「信仰の成長と共にお互いに対する愛が成長している」ことを喜びます。信仰は多くの場合、迫害を伴います。イエスは言われました「あなたがたは世に属していない。私があなた方を世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎む」(ヨハネ15:18-19)。私たちはキリストを知ることを通して、世の価値観とは異なる価値観を持ちますから、世と摩擦が起き、世に憎まれます。しかし、イエスは言われました「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

・その後の時間の経過の中で、教会の人々の祈りが主イエスの来臨を待望するだけでなく、「主の日は既に来た」として、「日常の働きを放棄する者もでている」状況に変わり始めてきました。そのためパウロは彼らに第二の手紙を書いて、「主の再臨をどのように待ち受けるべきか」を伝えます。それが第二テサロニケの手紙で、紀元51年頃とされています。パウロはまず教会の成長を喜びます「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。」(1:3)。

 

2.何故苦難を耐えてまで従うのか

 

・教会は迫害の中にありました。迫害や苦難に耐えてまで、何故信徒たちはイエスに従い続けたのでしょうか。それは「そこにしか救いはない」ことを知るからです。パウロは語ります「私たち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです」(1:4-5)。「あなたがたは神の国のために苦しみを受けている」、神は決してあなた方を見捨てられないとパウロは続けます「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、私たちと共に休息をもって報いてくださるのです」(1:6-7a)。

・信仰者が地上でどのような苦難や悲しみがあっても、神は知っておられ、神が慰めて下さるとパウロは述べます。「主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られる時、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、私たちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」(1:7b-8)。その時、あなた方を苦しめた者たちは「主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。かの日、主が来られる時、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたが私たちのもたらした証しを信じたからです(1:9-10)。

・世と世のものは過ぎ去ります。世はサタンの支配下にある悪の世のように思えるかもしれませんが、神は見ておられます。神は終わりの時に不義を裁いてくださる、「この苦しみはやがて終わる」、「その希望を持て」とパウロは語ります。「どうか、私たちの神が、あなたがたを招きにふさわしい者としてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」(1:11-12)。パウロは苦難が取り去られますようにとは祈りません。神の国の住人にふさわしいものにするために今苦難が与えられている、苦難は信徒の受ける栄光の一つであり、苦難を取り去るのではなく、苦難を耐える力を与えてくださいと祈ります。

 

3.働きたくない者は、食べてはならない

 

・テサロニケ教会の中では、迫害と苦難の中で主の日を待望するだけでなく、「主の日は既に来たとして、日常の働きを放棄する者も出て」きました。迫害と苦難が続くと信仰は熱狂的になりがちです。パウロは第二テサロニケ書で書き送ります「兄弟たち、私たちの主イエス・キリストが来られることと、その御許に私たちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、私たちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」(2:1-2)。

・その流れの中にありますのが、今日の招詞、第二テサロニケ3:10です。「実際、あなたがたのもとにいた時、私たちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました」。人々はパウロから福音を聞きました「キリストが来られて、世はその意味を変えた。世と世のものは過ぎ去る。だから世に関らないようにしなさい」(第一コリント7:31)、「主の日、救いの日は近い。だから目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)。パウロが語ったのは、「世の価値だけを求めて生きる、そのような行き方を変えて、神の国を求めなさい」という勧めでしたが、一部の信徒はそれを誤解し、「最後の日が来る。そうであれば、いまさら働いてもしようがない。教会に行って祈り、黙想の時を過ごそう」と言い出しました。

・彼らは教会の人々に言いました「私たちはあなたがたのために祈るから、あなたがたは私たちにパンを与えなさい」。パウロはそのような人々を怠け者と呼び、「働きたくない者は食べてはいけない」と語ります。「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になるのがキリストの教えられたことではない。キリストは今も働いておられる。だから、私たちも力の限りに働くのだ」。注意すべきは、パウロが「働きたくない者は食べてはいけない」、働くことを拒否している者たちを叱責していることです。

・この「働きたくない者は、食べてはならない」という言葉が、やがてカール・マルクスが誤訳し、「働かざる者、食うべからず」としたことによって、異なった意味で世に広まって行きます。マルクスはこの言葉を「生産に役立たない者は食べる資格はない」という意味に使ったのです。会社で業績の上がらない社員に対して「会社は慈善団体ではない。業績が上がらない者は辞めてもらう。“働かざるもの、食うべからず”だ」として、首切りの理由にされます。夫は妻に対して言います「誰のおかげで食べていると思うのか。私が働いているからお前は生活出来る。“働かざるもの、食うべからず”だ」。言われた妻は専業主婦であることを罪悪のように思い、社会に出て働かなければ一人前ではないと思い込まされています。

・留意すべきは、パウロは「働かない者は食べてはいけない」と語っているのではなく、「働きたくない者は食べてはいけない」と語っていることです。マルクスの言葉は完全な、あるいは意図的な誤解の上に成立しています。パウロ自身、天幕作りをして生活費を稼ぎながら伝道しており、「働けるのに働かない」、人々が叱責されています。病気のため、高齢のため、職が見つからないため、「働けない」人々がいます。それらの人々に「食べさせるな」と言われているのではないことをしっかりと認識することが必要です。

・聖書は労働をどのように見ているでしょうか。創世記によれば、人はエデンの園を耕し、守るものとしての使命が与えられていました。人間は本来働く者、働きを通して喜びを得る者として創造されました。その人間が神に背き、自分が神になろうとした結果、人はエデンの園を追われ、宣告されます「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ・・・お前は顔に汗を流してパンを得る」(創世記3:18-19)。ここで労働が苦痛に満ちた呪いとなります。働くという行為の中には、「神に祝福された本来の喜び」と、「神に呪われた苦痛」の双方の意味があります。怠け者は苦痛を避けようとして働くのを止め、勤勉な人は喜びを得ようとして働きます。

・私たちクリスチャンはどうすべきでしょうか。私たちはキリストの十字架を通して赦され、神の子とされ、労働についての呪い、苦痛から解放されています。だから私たちは一生懸命に働きます。それは「今ここで、主のために生きる」生き方です。ある人は言います「働く」とは「はた=他を、らく=楽にする」こと、キリストにあって、労働や職業は世の中を楽にし、他者を愛するために存在します。従って怠けて働かない者は、「キリストから離れている」ゆえに叱責されます。

・働き方にはいろいろあります。専業主婦も立派な働きです。仕事を外部の人に頼めば、月に15-20万円は必要となります。それだけの価値ある仕事が目に見えない形で為されています。寝たきりの老人も、人のために祈る時それは立派な仕事になり、人の話を嫌がらずに聞いてあげることも立派な働きです。人はそれぞれ賜物(タラント)を与えられており、その与えられたタラントを持って働けばよいのです。高齢の人は高齢のままで、病気の人は病気のままで働けばよい。それがパウロのいう「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい・・・あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」(第二テサロニケ3:12-13)ということです。高齢の人も、病気の人も大事な働きが出来るのです。

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