江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年4月12日説教(ヨハネ20:11-23、復活、永遠の希望へ)

投稿日:2020年4月11日 更新日:

1.空の墓

 

・新型コロナウィルスの感染蔓延のために東京都に非常事態宣言が出され、外出規制が為されています。そのため、多くの教会では4月中は会堂礼拝を休止、インターネット配信等で代用しています。その中で、私たちは今日、私たちはイースターのお祝いをするために会堂に集まりました。何故ならば、イースターこそ、私たちにとって1年間で最も大事な礼拝と思うためです。そのため、会堂内の換気に留意し、マスクつけながら、それでも会堂に集まりました。イエスの生涯は十字架死と埋葬で終わったのではなく、復活されたからこそ、意味があり、そのことを伝えたいと願うからです。

・ただ復活は現代人には理解の難しい出来事です。イエスの生誕から受難までは歴史的な出来事として語ることが出来ます。その証拠に、イエスの受難については、四福音書はほぼ同じ記述を伝えます。しかし、復活についての聖書の記述はばらばらです。四福音書とも復活を信じることがいかに困難であったかについて伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失っていた」と書き(マルコ16:8)、ルカは婦人たちの報告を聞いた弟子たちが「たわごとのように思われたので信じなかった」(ルカ24:11)と記し、マタイでは復活のイエスに出会った弟子たちの中に「疑う者もいた」(マタイ28:17)とあります。今日読みますヨハネ福音書では「墓が空だ」との報告を受けたペテロが墓に急ぎますが、「イエスの復活を理解できなかった」とあります(20:9)。復活は歴史的検証が難しい出来事です。

・復活は直接目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事でした。しかし復活は私たちにとって最も大事な事柄であり、わからないでは済まされない出来事です。今日はヨハネ20章の記事を中心に、この復活の出来事を学んでいきます。まず、イエスの死と埋葬から見ていきましょう。イエスは金曜日の午後3時ごろ、息を引き取られました。日が暮れると安息日が始まり(ユダヤの1日は日没から始まります)、安息日に遺体を十字架にかけたままでいることは禁じられていましたので、イエスの遺体は、あわただしく十字架から取り降ろされました。処刑された罪人は通常は共同墓地に埋葬されますが、イエスの場合はアリマタヤのヨセフが埋葬を申し出たために彼に引き渡され、ヨセフはイエスの遺体を亜麻布で包み、自分の墓に仮埋葬しました。十字架に立ち会った婦人たちは、この一部始終を見ていました。

・日が落ち、安息日に入りました。婦人たちは、イエスの遺体に香油を塗り、相応しく埋葬したいと願いましたが、安息日の外出は禁じられていたため、その日は一日待機し、翌日曜日の夜明けと共に墓に急ぎました。ユダヤの墓は岩を掘り抜いて造る横穴式の墓で、その入り口に石を置いて蓋をします。墓についてみると、墓から石が取り除いてありました。婦人たちは墓の中をのぞいて、イエスの遺体がなくなっているのに気づきます。婦人たちの一人、マグダラのマリアは誰かがイエスの遺体を取り去ったと思い、震えながら弟子たちの所に走って伝えます「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません」(20:2)。

・報告を受けた弟子のペテロとヨハネが急いで墓に走りました(20:2-3)。二人が墓に着いて、中をのぞくと、墓は空であり、遺体を巻いた亜麻布はそこにありましたが、遺体は何処にもありません。二人の弟子たちは、何が起きたのかわからないままに、家に帰りました。マリアも弟子たちに遅れて、再び墓に来ます。彼女は、弟子たちが帰った後も、あきらめきれない思いで墓の側にたたずみ、泣いていました。そこにイエスが来られます。イエスはマリアに「婦人よ、何故泣くのか」と声をかけられました(20:15)。マリアはそれがイエスとわからず、彼に言います「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります」(20:15)。イエスは彼女の名を呼ばれます。彼女はその人がイエスとわかり、「ラボニ(先生)」と呼んで、イエスに取りすがりました。

2.復活を信じることの出来ない弟子たち

 

・マリアは再び弟子たちのところに行き、「私は主と出会いました」と報告します。しかし、弟子たちは信じることが出来ません。併行箇所のルカは「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)と記します。日曜日の朝の出来事です。ルカによれば、その日の午後、二人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かいますが、その道すがらイエスが二人に同行されたと伝えます。しかし「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とルカは記します(ルカ24:16)。その日の夕刻、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(20:19)、閉じこもっていました。弟子たちはイエスがローマ兵に捕らえられ、十字架で死んで行かれた様を見ました。「この人はメシア(救い主)ではなかった」、弟子たちは生きる目標を失くして、打ち沈んで家に閉じこもっていた。イエスが現れる前、弟子たちは、肉は生きていましたが、魂は死んでいたのです。

・その弟子たちにイエスが現れます。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」(20:19-20)。彼らにイエスがご自分の手とわき腹をお見せになった時、弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることを信じ、喜びました。

・ここに復活の出来事をどのように理解すべきかの示唆があります。イエスの遺体を納めた墓が空であることを知っても、それは何の力も持ちません。ヨハネは、空の墓を見た弟子たちが、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(20:9)と記します。知識は人を信仰には導きません。また、他の人が証言しても何の意味もありません。弟子たちはマリアの「私は主を見ました」(20:18)との証言を聞いても信じませんでした。弟子たちが復活を信じたのは、自分が直接復活のイエスに出会い、その手の釘の跡を見、わき腹の傷跡に触れたからです。復活は、私たち自身が直接体験しない限り、信じることが難しい出来事なのです。

 

3.キリストのよみがえりを伝える

 

・今日の招詞にヨハネ20:27-28を選びました。次のような言葉です「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『私の主、私の神よ」と言った」。復活のイエスが弟子たちに現れた時、トマスはそこにはいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」といってもトマスは信じません。彼は言います「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(20:25)。

・トマスは観察し、実験し、実証されうるものでなければ決して信じません。しかし、イエスは信じることの出来ないトマスのために、再度現れたとヨハネは記します。8日の後、次の主日、イエスが再び現れ、トマスに言われます「おまえは見ずに信じることは出来なかった。この釘跡と槍跡に触れても良い。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの前にひざまずき、告白します「わが主、わが神」。教会の信仰告白の核心が、信じることの出来なかった弟子において語られました。この日が8日目であることを覚える必要があります。1週間前の日曜日に復活のイエスに出会った弟子たちは、次の日曜日にイエスと再び出会うために集まっていた、既に礼拝が始まっていたのです。それから2000年、教会はイエスの復活を覚えるために礼拝を続け、その礼拝の中心が本日のイースター礼拝です。どうして集わずにいられましょうか。

・キリストの復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きていくかを決定します。復活を信じることが出来ない時、人生は死で終わります。死で終わりますから、現在を楽しむことに関心は集中します。復活を信じることが出来ない時、その生涯は、終身刑を言い渡された囚人の人生のようです。死で全ての望みが砕かれますから、そこには希望はありません。キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。死が終わりではなく、死を超えた人生が開けるからです。

・キリストは十字架で権力者によって殺されました。そのイエスが復活されたということは、「人が倒した者を神が起こされた」ことを意味します。神は悪をそのままには放置されない、神は「悪を変えて善と為す」力をお持ちであることを、私たちは復活を通して知ります。現実にどのような悪があろうとも、その悪は終わることを信じますから、私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、「悪を変えて善と為す」神がおられるから、私たちは絶望しません。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらします。
・ヨハネはイエスを納めた墓が空であるのをみたペテロともう一人の弟子が、「まだ理解していなかった」と記します。この言葉は悲観の言葉ではありません。「まだ」は時が満ちると、「やがて」に変わります。まだ理解しない者が復活のキリストと出会うことを通して、理解する者に変えられるとの希望の言葉です。パウロが言うように、「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも・・・はっきり知ることになる」(第一コリント13:12)のです。だから私たちは毎主日に教会に来て礼拝を続けるのです。礼拝を通して主に出会うためです。今日、私たちは一人の兄弟のバプテスマ式を執り行います。新しくキリストを救い主と信じた兄弟が私たちに与えられたことは、神が生きて働いておられるしるしです。まさに、イースターにふさわしい行事です。今年もまた、このような喜ばしい行事で、主の復活を祝うことが出来ることを感謝します。

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