2019年5月19日説教(ガラテヤ4:8-20、罪の奴隷に逆戻りするな)
1.自由になったのに奴隷に逆戻りしてはいけない
・ガラテヤ書を読み続けています。パウロの伝道により、ガラテヤの人々は、それまでの偶像礼拝からキリスト教信仰に目覚めました。しかし、その後に来たエルサレム教会からのユダヤ人伝道者の影響を受けて、彼らは割礼を受けようとしています。パウロは、「律法の奴隷から解放されたのに、何故また割礼を受けて、奴隷に戻ろうとするのか」と教会の人々に手紙を出しました。
・パウロは記します「相続人は、未成年である間は・・・父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様に私たちも、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(4:1-3)。「あなたがたは未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」、しかし、キリストが来られてあなた方は自由を与えられた。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした」(4:4-5)。だから「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4:7)。
・そのあなたがたが今、割礼を受けて律法に戻ろうとしているが、それはかつてあなたがたを支配していた「諸霊(ストイケイア)の奴隷」に戻ることだとパウロは語ります。「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(4:8-9)。「あなた方は神から知られている」、あなた方は「神から受容されている」。それなのに、魂の救いを、この世の秩序や断食等の行為に求めようとしているのか、それは自然界の諸力への再度の隷属に他ならないと彼は語ります「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(4:10)。自然界の諸力=ストイケイアとは、今日の私たちをも支配しているこの世の悪魔的霊力、罪のことです。
・聖書でいう罪=ハマルテイアとは、「的から外れる」という意味です。的から外れる、神なしで生きるという意味です。神なき世界では、人間は人間しか見えません。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨みます(=恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していきます。神なき世界では、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界です。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケイア)が働いていると見るのです。
・その霊力が世の権力と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持ちます。現代の私たちは地球を何度も破壊する量の核兵器を所有しています。広島、長崎への原爆投下を通して、核兵器が悪魔の兵器であることを誰もが知ったのに、世界はそれを廃絶することが出来ない。「核兵器は抑止力として必要だ」とうそぶく人々は悪魔的力の奴隷になっています。原子力発電も同じです。私たちは福島原発事故を契機に原子力発電の怖さを知り、放射性廃棄物を処理する能力がないことを知りました。それにも関わらず、原発再稼働が当然のように進められています。現代の私たちも悪的諸霊=ストイケイアから自由になっていないのです。ストイケイア、医師の加賀乙彦は「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にある時に、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、『自分ではない者の意志』のような力、すなわち「悪魔のささやき」である」(加賀乙彦「悪魔のささやき」から)と語ります。
・人間がこの罪の縄目から自由になるために、神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任された。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見ます。しかし神はイエスを死から起こすことを通して、罪を放置することを許されなかった。だから私たちはキリストの十字架死を通して救われる。それなのにあなた方は「救われるためにはキリストだけでは不十分だ」と言い始めている。あなたがたが割礼を受けるとは、「神無き世界に逆戻りすることだ」とパウロは語っています。
2.ガラテヤ教会をもう一度生むと言うパウロ
・12節からパウロの語調が変わり、これまでの論難調から、人々に対する個人的な語りかけになって行きます。「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください」(4:12)。パウロは異邦のガラテヤ人に福音を伝えるためにユダヤ人であることを捨てました。彼らに割礼を強制せず、食物規定を守ることさえ求めなかった。その私をあなた方は暖かく迎え入れてくれたとパウロは回想します「あなたがたは、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知っての通り、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」(4:12b-14)。
・パウロはガラテヤに行った時、病気に悩まされていたようです。その病気は眼病であったようです(4:15b「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです」)。かつてパウロを師として慕った人々が、今はパウロが敵であるかのように考えている。パウロは嘆きます「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(4:15a)。パウロは彼らをたぶらかせたエルサレム教会の伝道者を批判します「私は、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」(4:16-17)。そしてパウロはガラテヤの人々に呼びかけます「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」(4:19-20)。しかしパウロは「途方に暮れても行き詰まりません」(2コリント4:8)。
3.罪からの解放
・今日の招詞にガラテヤ6:14-15を選びました。次のような言葉です。「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされます。私たちが信仰を教会の中だけに留めておけば、世との関係は良好に保たれるでしょう。しかし、私たちはどう生きたかを最後の審判の時に問われます。私たちが世の悪を見て見ぬふりをし、泣いている人々の顔を見つめようとしなければ、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)と叱責されるでしょう。日本のキリスト教会は明治以降150年経っても、信徒数が人口の1%を超えることが出来なかった。それは日本人の信仰が個人の救いに留まり、社会的な広がりを持たなかったからです。信仰と生活が分離し、信仰がその人の生き方を変えなかったからです。
・人が信仰に導かれるのは、信仰者の行為に感動した時です。劇作家の井上ひさしさんは、15歳の時に養護施設に入りますが、「その施設で働く修道士たちの生きざまを見てカトリックの信仰に入った」と語ります。「500項目以上の公教要理を暗唱し、毎朝6時からのミサにもきちんと出席して、洗礼を受けるようになった。しかし、それは、カトリックの教理をよく理解したからというのではない。私が信じたのは、はるか東方の異郷にやってきて、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒れ地を耕し、人糞をまき、手を汚し、爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国人の師父たちであり、母国の修道会本部からの修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちであった。私は天主の存在を信じる師父たちを信じたのであり、キリストを信じるぼろ服の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだ」(井上ひさし「道元の冒険」後書きから)。
・パウロはガラテヤの人々が割礼を受けることに強硬に反対しました。割礼を受けよと勧めるエルサレム教会の伝道者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)とさえ叫びます。割礼が何故そんなにいけないのか、それは「割礼を受ける」ことによって、救いの決定権を人間の側が持つようになるからです。割礼を受けた者は、「割礼を受けたのだから救って下さい」と神に迫っていくようになります。律法主義は自分の行いの正しさを神の前に持ち出すのです。そこでは「自分は正しい」という主張はあっても、心の変革は生じません。福音は、無条件で人間を赦し救って下さる神の憐れみを信じることです。この無条件の救いが人間の変革をもたらすのです。
・パウロは怒って、この手紙を書いています。正面から相手を面罵する手紙を書けば、相手の感情を逆なでし、逆効果になりかねないことをパウロは承知しています。それでも書かざるを得ません。福音の本質が損なわれようとしているからです。この手紙は宗教改革者マルティン・ルターの熱愛の書でした。ルターが戦ったカトリック教会は「イエスを信じる信仰だけでは十分ではない。人は善行を積むことによって救われる」と功績主義を掲げていました。「律法による救い」のカトリック版(善行による救い)です。その教会にルターは激しい言葉で、「呪われよ(アナテマ)」と叫びました。まるでパウロのように、です(ガラテヤ1:9)。今日でも教会の中に「善行を積めば救われる」、「信仰すれば幸せになれる」という誤った幸福主義が入り込む危険性があります。私たちはパウロのように、ルターのように、この「異なった福音」を拒否する必要があります。イエスが私たちの為に殺され、イエスの弟子であるパウロやペテロも殺されています。この救いは高価な贖い、命をかけて贖われたものなのです。