2019年4月20日受難日礼拝説教(ルカ23:32-50、父よ、彼らを赦したまえ)
1.ゴルゴダにて
・受難日礼拝の時を迎えました。本年度はルカ福音書からイエスの受難物語を聞いていきます。イエスは木曜日の深夜に死刑の判決を受け、ローマ兵たちはイエスを十字架につけるために、されこうべ(ゴルゴダ)と呼ばれる刑場に連れてきました。金曜日の午前中の出来事です。処刑場ではイエスと共に二人の犯罪人も十字架につけられました。三本の十字架がゴルゴダの丘に立てられました。人々は十字架につけられたイエスを嘲笑して言います。「他人を救ったのなら、自分を救うが良い」(23:35)。「おまえがユダヤ人の王なら自分を救ってみよ」(23:37)。「自分を救え」、これが世の求める救いです。「自分を救えない者がどうして人を救えるのか」、「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15:30)。
・イエスはこの嘲りに対して、十字架上で祈られます。「父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らないのです」(23:34)。処刑される人は、通常は死刑執行人を呪って死んで行きます。私たちも、自分が無実なのに磔にかけられたならば、その人々を呪うでしょう。しかし、イエスは自分を十字架で殺そうとする者たちのために、その赦しを祈られました。この言葉を共に十字架につけられた罪人たちも聞きます。二人の内の一人はイエスをののしります。「この私を救え、この私を救えない限り、おまえは私にとって何の価値もない」(23:39)。
・もう一人はイエスに憐れみを乞います「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」(23:42)。彼は自分が救いに値しないことを知っています。彼はただ、イエスが神のもとに帰る時、思い出して欲しいと願うだけです。この憐れみを乞う男にイエスは答えられます「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」(23:43)。ここに最初の信仰告白がなされ、その告白に対して祝福が与えられました。最初のクリスチャンがここに生まれました。この罪人を信仰告白に導いたものは、イエスのとりなしの祈り、「父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らないのです」という祈りでした。人はみな自分を殺す者を恨んで死んでいくのに、この人は自分を殺すものを祝福して死んでいかれる。イエスに対する感動がこの罪人を信仰に導きました。
2.信仰を告白するということ
・同じ言葉を聞いて、一人は回心し、一人はイエスを罵りました。何が二人を分けたのか。それは罪の意識の違いです。二人は法に反する罪を犯し、その報いとして刑を受けています。しかし、イエスを罵った罪人はそれを認めません。もう一人はそれを認めます。彼は言います「 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(23:41)。人を救いと滅びに分けるのは、自分が罪びとであると認めることが出来るかどうかです。自分の罪を認めた時、私たちは悔い改め、赦しを求めます。そして、求めた者には、赦しが与えられます。
・小塩節(おしお・たかし)というドイツ文学者がいます。彼は1962年ドイツに留学し、ある時ダッハウという町に行きました。ナチス時代の強制収容所のあった場所です。建物の中に入ると「シャワールーム」があり、天井にはスプリンクラーが設置され、そこから毒ガスが噴出され、300人の人を一度に殺したと説明されます。横の部屋には処理室があり、死体から金歯やめがね等の貴重品をはずした後、大きなオーブン型の焼き釜で死体をゆっくり焼いて、せっけん用の脂と肥料になる灰をとったそうです。まるで食肉工場のようでした。小塩さんは人間をもののように扱うドイツという国に衝撃を受け、こんなドイツから学ぶべきものはないと、留学を切り上げて帰る事を決意します。
・その日の夕方、日本から訪ねてきた知人に頼まれて、プロテスタント教会の夕礼拝に一緒に行きます。普通の家に大勢の人がいました。説教はすでに始まっており、二人は部屋の隅に立って説教を聞いきます。説教者は語りました「私たちは6百万人のユダヤ人をガス室に送り込んだ。その上千数百万人の東欧の無辜の民を殺した。私たちの手は、あの人たちの血で血塗られている」。小塩さんはその日見たダッハウの強制収容所を思い出しました。銀髪の説教者は「選ばれた民であると自ら誇る時、個人も民族も恐るべき罪を犯す」と語り、祈り始めました。小塩さんは語ります「数十年経った今もその祈りを覚えている。説教者は祈った『神よ、私たちは罪にまみれています。あなたに対し、世界に対して、私たちは罪を犯しました。神よ、われ信ず、信なきわれを助けたまえ』」。
・自分が罪を犯したと語っていたその人は、ハノーバーの学校の先生で、学生時代にナチへの抵抗を試みて捕らえられ、ダッハウ収容所につながれ、終戦後に解放された人であったという話を受付の人から聞きました。本人はそのことには一言も触れず、自分が加害者ドイツ人の一人であることを会衆と共に神にわび、救いを祈っていました。小塩さんは記します「彼は祈りながら涙を流していた。自ら生命を投げ出した真の闘士であったからできるのだ。ドイツ・キリスト者の根性が、ここにあった。これこそほんとうの勇気である。私は自分自身が恥ずかしかった。彼がお祈りの中で引用した聖句、“われ信ず、信なきわれを助けたまえ”という言葉は今も私の耳からどうしても消えないで、響き続けている」。その祈りに動かされて小塩さんはクリスチャンになりました(小塩節「人の望みの喜びを」)。
3.十字架の信仰に生きる
・教会はただ十字架の言葉を伝えます。十字架の言葉こそ、人にその罪を知らしめ、回心に導く言葉です。イエスと共に十字架につけられた罪人は、「父よ、彼らを赦したまえ」というイエスの言葉を聞いて回心しました。小塩節さんは「われ信ず、信なきわれを助けたまえ」というドイツ人の祈りを聞いて回心しました。そして悔い改めた者には祝福が与えられます。人は追いつめられないと十字架が見えない。
・森有正という信仰者は次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはないのです。人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる。また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことはできない。」(森有正「土の器に」p.21)。
・4月16日にパリのノートルダム寺院が火災で焼失しましたが、その炎の中で十字架だけは無事でした。十字架は石造りのため、今回の火災でも焼けなかったようです。とても印象的でした。聖歌397番「遠き国や」という讃美歌があります。関東大震災を経験した宣教師が、その悲惨な状況の中で十字架に希望の光を見出して作られた聖歌です。「遠き国や、海の果て、いずこに住む民も見よ、慰めもて、かわらざる、主の十字架はかがやけり。慰めもてながために、慰めもてわがために、揺れ動く地に立ちて、なお十字架は輝けり」。私たちは「他人には知らせることができない心の一隅」を持ちます。私たちは都合が悪くなると、最愛の人でさえ裏切る存在であり、他者の幸福を喜ぶのではなく、妬む存在です。その私たちの罪が明らかにされる場所が十字架です。この十字架につかれたキリストを私たちは宣教していきます。