2019年2月3日説教(ルカ7:1-17、神の国のしるしとしてのいやし)
1.百人隊長の僕をいやす
・ルカ7章には二つのいやしの物語が記されています。一つは百人隊長の僕のいやしです。ルカは記します「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ」(7:2-3)。百人隊長はイエスに面識がなく、ただイエスの癒しのうわさを聞いていました。だから部下が死の病にかかった時、イエスならばいやして下さるのではないかと思い、知り合いのユダヤ人長老たちにイエスへの紹介を願いました。彼はガリラヤ領主ヘロデの宮廷のあったカペナウムにおり、ヘロデに仕える異邦人軍人であったと思われます。彼はまだユダヤ教に改宗してはいませんが、安息日にはシナゴークで礼拝を行う「神を畏れる者」でした。ユダヤ人長老たちは彼をイエスに推薦します「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(7:4-5)。
・彼は重い身分の軍人であるのに謙遜です。異邦人と交際しないユダヤ人の習慣を重んじて、「私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、私の僕をいやしてください」(7:6-7)と語ります。彼は権威の意味を知っている人です「私も権威の下に置かれている者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします」(7:8)。百人隊長の謙虚な信仰をイエスは称賛されます「イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない」(7:9)。隊長の部下の病はその時いやされたとルカは記します(7:10)。
・イエスは百人隊長のどこに信仰を見られたのでしょうか。おそらく「イエスの言葉に絶対の信頼を置いた」ことに感動されたと思われます。百人隊長は言いました「お言葉だけをください。そうすれば私の僕の病気は治るでしょう」(7:7)。「イエスの言葉にはその力がある」、「イエスは神から来られた方だ」との信仰が僕のいやしを導きました。マルコは「(イエスは故郷ナザレでは)、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(6:5)と書きます。ナザレの人々はイエスをよく知っているためにイエスの力を信じることが出来ませんでした。もし村人らが、イエスに信頼を寄せることができれば、イエスはもっと多くのいやしの業をされたでしょう。信仰のないところでは神の祝福は限定されるのです。いやしは今日でも起こるのでしょうか。起ると思います。ただこれは神の業であり、人間の希望の通りになるものではないことは当然です。
2.やもめの息子を生き返らせる
・二番目の癒しはやもめの息子のよみがえりです。この物語は他の福音書には記載がなく、ルカだけが伝える物語です。イエスは一人息子の死を悲しむやもめを、「憐れに思われました」(7:13)。この「憐れむ」という言葉、ギリシャ語「スプラングニゾマイ」は内臓=スプランクノンから来ています。この女性は先に夫を亡くし、今は子を亡くした。これから先、どうやって暮らしていけばよいのか、わからない。イエスはやもめのやるせない悲しみを見て、はらわたが引き裂かれるように憐れみを覚えられたとルカは記します。イエスは「死体に触れてはいけない」という当時の律法の禁止規定を超えて、「近づいて棺に手を触れ」、言われます「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(7:14)。すると「死人は起き上がってものを言い始めた」(7:15)。死んだ人間がよみがえった、信じられないことが起こり、人々は、イエスの力に驚嘆します。「大預言者が我々の間に現れた」、「神はその民を心にかけてくださった」と人々は叫び(7:16)、「イエスについてのこの話しは、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった」(7:17)とルカは記します。
・何が起こったのでしょうか。日常の世界では、このような奇跡は起きません。私たちは、この物語は人間の物語ではなく、神の物語であることに留意すべきです。「若者よ、起きなさい」の「起きる」という言葉には「エゲイロー」というギリシャ語が使われています。また「大預言者が現れた」の「現れた」もまた「エゲイロー」です。ギリシャ語辞典によると、エゲイローという言葉は「起こされた、復活させられた」という意味であり、イエスの復活を描写する時に用いられます。つまりルカはここに復活者イエスの出来事を描き込んでいるのです。ルカがこの福音書を書いた時には、イエスは既に十字架の死からよみがえり、天に昇られ、そこから自分たちを見ていて下さると弟子たちは信じていました。そして天のキリストは、死を克服された方、パウロが「死は既に滅ぼされた、死は勝利に飲み込まれた」と宣言した方です(第一コリント15:54)。十字架を通り、墓からよみがえられたイエスの力が、今、死んだやもめの息子の上に働いたとルカは証ししているのです。ルカは「ナインのやもめの息子がよみがえった」という伝承に、教会の復活信仰を組み込んで福音書を構成しています。
・死者のよみがえりは、人間にとっては、驚くべき、信じがたい出来事です。しかし、よみがえった人もやがて死ぬという意味では、神の前では特段に驚くべき出来事ではありません。本当に驚くべきことは、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」(第一コリント15:20)という福音の告知です。「キリストが死からよみがえられた、死は滅ぼされた。だから私たちも終わりの日によみがえる希望を与えられた」ことです。ルカはこの物語を通して、「私たちの人生は死では終わらない」ことを伝えようとしているのです。
3.神の力に信任する
・今日の招詞にルカ7:22を選びました。次のような言葉です「それで、二人にこうお答えになった。『行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」。今日の話に続く箇所です。洗礼者ヨハネの弟子が来て「来るべき方はあなたなのですか」とのヨハネの質問をイエスに伝え、それに対してイエスが答えられた言葉です。
・洗礼者ヨハネはイエスの師でした。ヨハネは、「終末の裁きの時が近づいた」と宣言し、人々に「悔改め」を迫りました。人々はヨハネの宣教に心動かされ、故郷ナザレにおられたイエスもユダヤに来られ、ヨハネからバプテスマを受けられました(3:21)。イエスは受洗後も、しばらくはヨハネの下で学びを深められましたが、次第にヨハネの言動に違和感を持たれるようになります。ヨハネのように「罪びとを断罪し、悔い改めに至らせる」ことが、果たして「神の国の良い知らせなのか」と疑念を持たれたのです。
・やがてヨハネはガリラヤ領主ヘロデ・アンテイパスを批判して捕えられ、死海のほとりのマケロス要塞に幽閉されます。イエスはそれを契機にヨハネ教団から独立して、宣教を始められます。やがてイエスの評判が獄中のヨハネに届きます。ヨハネの使信は、「裁きの時は近づいた、悔改めなければおまえたちは滅ぼされる」というものでした。ヨハネが期待したメシアは、不信仰者たちを一掃し、新しい世を来たらせる裁き主でした(3:9)。しかし、イエスは罪人と交わり、貧しい人を憐れみ、病人をいやされている。裁きの時に罪人は滅ぼされる運命にあるのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。
・だからヨハネはイエスに尋ねます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(7:19)。ヨハネにイエスはお答えになります。「神の国は既に来ている。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされているではないか」と。イエスは人々に、天の父が彼らを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせ、その喜ばしい知らせのしるしとして、病や悪霊からのいやしがあることを告知されます。
・いやしは今日でも起こるのでしょうか。起ると思います。本田哲郎神父は聖書のいやしについて語ります「文字通り“いやす”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコで合わせて五回しかない・・・あとはすべて“奉仕する”という意味の、“セラペオー”が用いられる。英語 Therapy の語源となった言葉で、これを病人に当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる。イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“いやし”を行うことではなく、“手当て”に献身することであった。イエスが為されたのは病の治癒ではなく、病人の苦しみに共感し、手を置かれる行為だった、その結果ある人々の病がいやされていった」と本田氏は語ります(「小さくされた人々のための福音」)。
・私たちは自分たちに出来るいやしの業に取り組む必要があります。私たちは足の不自由な人に、「起きて歩け」ということは出来ません。しかし、足の不自由な人が、教会に来ることが出来るように、玄関の段差をなくし、車椅子のままトイレを使えるように教会を整えることは出来ます。私たちは、病気で寝ている人の病気を治すことは出来ません。しかし、寝ている人を訪ね、その枕元で一緒に讃美することは出来ます。日曜日に教会に来ることが出来ない人のために、私たちは自分の家を解放して、家庭集会を行うことは出来ます。私たちは足の悪い人の足をいやすことは出来ませんが、イエスの前にその人を運ぶことはできます。そしてイエスは「私たちの信仰を見て」行為されます。イエスの前に人を運ぶ、その先は、赦しと癒しの権能を持たれるイエスにお委ねする。教会は多くのいやしの業を行うことが出来るのです。