江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年11月10日説教(ヘブル11:1-16、信仰の先人と共に)

投稿日:2019年11月9日 更新日:

 

1.篠崎キリスト教会の原点としてのヘブル書

 

・教会創立50周年の時を迎えています。篠崎キリスト教会の第一歩は、1969年11月6日の新小岩バプテスト教会・篠崎伝道所の第一回礼拝でした。当初は教会堂もなかったため、現在の下篠崎町にある篠崎文化館の一室を借りて礼拝がなされたと聞いております。その礼拝の時、読まれたテキストがヘブル11章です。その後、宮地牧師が招聘され、新小岩教会から株分けとして17人の人が派遣されることになり、1971年6月27日に牧師就任・信徒派遣式が行われ、その式で読まれた聖書も同じくヘブル11章でした。ヘブル書は当教会にとって原点とも言うべき書ですので、今日の記念礼拝の聖書個所として選びました。

・ヘブル書は紀元90年頃に書かれた手紙だと言われています。イエスが十字架で死なれたのは紀元30年頃ですが、その後イエスを救い主=メシアと信じる人たちが教会を形成していきます。しかし、生れたばかりの教会は、最初はユダヤ教からの、次にはローマ帝国からの迫害で、多くの人々が殉教していきました。人々はキリストが再び来られて神の国がこの地上に築かれることを待望していましたが、50年経っても再臨はなく、逆にユダヤはローマに滅ぼされ(紀元70年、ユダヤ戦争)、人々は国を失くした流浪の民として散らされていきました。人々の信仰は動揺し、「本当に神はおられるのか、本当にイエス・キリストは救い主だったのか」という疑いを持つようになりました。そのような人々を励まし、「固く信仰に立って、神の約束を待ち望め」と励ました書がこのヘブル書です。

・新小岩教会の立石牧師が篠崎伝道所の第一回礼拝のテキストとしてヘブル書11章を選ばれたのも、伝道所を設立し、宣教を開始するにあたり、「いろいろの困難がこれから来る、信仰が揺さぶられるような挫折や失望もあるだろう、その中で主の約束を信じて耐え忍べ」との思いをヘブル書に託されたのではないかと思います。それから50年の時が経ち、与えられた牧師が辞任して無牧の時もあったし、信徒が散らされるような悲しい出来事もありました。しかし、教会は神の守りの中にあって、一回も礼拝を休むことなく今日に至っています。へブル書は語ります「私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適わない。しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」(10:38-39)。教会はひるむこともありました。しかし主の御守りの中で滅びずに50周年を迎えることが出来ました。

 

2.信仰の先人たちを見よ

 

・ヘブル11章は信仰の定義から始まります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)。「望んでいる事柄を確信する」とは、「あなた方を救う」との神の約束に信頼することであり、「見えない事実を確認する」とは、救いの最終地点としての神の国を望み見ることです。この手紙は迫害の中で書かれています。へブル書は、キリスト者であるという理由で、信徒が投獄され、殺されていく時代に生きた信徒たちへの手紙なのです。信仰を持っても何も良いことがない、苦難だけが重くのしかかる時代の中で、「何が救いなのか」と人々の信仰は揺らぎました。

・このような信仰の揺らぎは現代にもあります。私たちそれぞれに、この世に従うか神に従うかの選択を迫られる時が来るでしょう。神に従うとは、この世的に見れば負わなくとも良い十字架を負うことでありましょう。逃げることが出来るのに逃げずに、避けることが出来るのに避けずに、現実を直視し、受け入れていくことが求められます。その時、世界が神の言葉によって成っていること、その中で自分が生かされていることを知ります。「神が光あれと言われると光があった」(創世記1:3)。神は無から有を生じせしめる力をお持ちであることを信じる。その時、どのような苦難があってもその苦難に耐える力を神はお与え下さることを信じることが出来ます。へブル書は語ります「そのように苦しむのはあなたたちだけではなく、多くの先人たちが苦しみの中で信仰を貫いてきた」と。

・4節からその信仰の先人たちが列挙されています。最初がアベルです。アベルの物語は創世記4章にありますが、アベルは羊飼いで、群れの初子と肥えたものを神に献げました。他方、兄のカインは農夫で、地の産物を持ってきて神に献げました。神はアベルの献げものを受け取られ、カインの献げものは受け取られなかったため、カインは逆上してアベルを殺します。アベルは殺されましたが、神はアベルの無念の叫びを知っておられるとヘブル書は語ります。私たちが全力を尽くしてこの世を生き、それが世に評価されなくとも、神は私たちを顧みて下さるとヘブル書は語ります。このカインとアベルの物語を現代に翻訳した小説がスタインベック「エデンの東」です。映画化されて有名になりました。

・次に出てくるのがエノクです。「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」(創世記5:24)。エノクは正しい人であったので、死を経験することがなかったと聖書は伝えます。このエノクの末からダビデが、そしてイエス・キリストが生れています(ルカ3:37)。7節からノアの記事が始まります。ノアは洪水が来ると告知された時、その言葉を疑うことなく信じ、箱舟を作りました。世の人々は、「晴れた日に箱舟を造る」ノアの行為を愚かと嘲笑しましたが、神の言葉を信じなかった人々は洪水によって死んだとされています。

・8節からアブラハムの出来事が記されています。アブラハムはメソポタミヤのハランに住んでいましたが、神から「受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(11:8)。アブラハムは「行く先を知らないで出て行った」、ここに信仰があります。神が導き給うとの約束を信じて出発したのです。約束の地カナンにおいて、彼は生涯、寄留者として過ごし、土地を持つことはありませんでした。アブラハムの妻サラは子を与えると約束されましたが長い間子は生れず、高齢になり、月のものが無くなっても、子を与えるとの神の約束を信じ続け、90歳の時に息子イサクを産みます。そのイサクからヤコブとエソウが生まれ、ヤコブから12人の子が生まれ、やがてイスラエルの十二部族が形成されていき、彼らに約束の地が与えられます。アブラハムへの約束から500年後でした。

・13節から、これまでの記述が振り返られます。信仰の先人たちはみな、約束の成就を見ませんでした。アブラハムは約束の地に招かれましたが、生前は寄留者、旅人に過ぎませんでした。土地が与えられなかったにも拘わらず、彼ははるかにそれを望み見て喜んだとヘブル書は記します。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(11:13)。

 

3.約束の地を目指して

 

・今日の招詞にヘブル12:1-2を選びました。「こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。今、私たちは苦難の中にあるかもしれません。しかし、私たちは一人ではなく、多くの先人たちが歩んでいる道を歩んでいます。モーセがイスラエルの民を率いて、約束の地を目指して荒野を旅したように、私たちも主イエス・キリストに率いられて約束の地を目指して歩んでいます。

・私たちの約束の地はこの地上にはなく、天にある故郷です。「このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」(11:14-16)。約束の地が地上にないから、この地上で私たちは苦難を受けます。しかし、その先には平安があります。神は私たちのために天に場所を用意されています。だから「疑うことなく、主イエスの後に従って、この競争を走りぬこうではないか」とヘブル書は呼びかけます。

・私たちが信仰の祖と呼ぶアブラハムは、神の呼びかけに従い、故郷を捨てて出て行きました。しかし、出て行った先で、彼は様々の失敗を繰り返し、道徳的には許しがたい多くの罪も犯しました。決して品行方正の人ではなかった。にもかかわらず、彼は神の約束にしがみついていきました。神の約束に頼み続けた。だから彼は信仰の父と呼ばれたのです。私たちの篠崎キリスト教会は本日創立50年を迎えました。今回三人の前任牧師から50年記念誌への寄稿をいただきましたが、その中には様々のご苦労が書かれています。50年間の歩みの中に、反省すべき点、悔改めるべき点も多くあるし、多くの失敗も犯し、罪も犯しました。しかし、信仰の世界では失敗を恐れる必要はありません。大事なことは失敗しないことではなく、従うことです。何もしない人は失敗しない代わりに従うこともしないのです。

・私たちはキリストに従い続けてきました。約束の実現を望み続けて来ました。日本の国においてキリスト者になるということは少数者、アウトサイダーになることです。しかしアウトサイダー、外側に立つ人間になることによって、はじめて真実の日本人になることが出来ます。それこそが「地の塩」、「天に国籍を持つ」者としての生き方です。へブル書は私たちに主の約束を伝えます「主ご自身がこう言われるのです。『私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』」(13:5、新改訳)。この約束の言葉を信じて、私たちは次の50年に向かって歩み続けます。

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