2019年10月27日説教(マタイ5:21-26、殺してはいけない)

投稿日:2019年10月26日 更新日:

  • モーセは命じた「殺してはいけない」。

 

・マタイによる福音書・山上の説教を読み続けています。今日はその第四回目、主題は「殺してはならない」です。この戒めは十戒の第六戒にありますが、詳細はレビ記にあります。レビ記は記します「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる・・・命には命をもって償う」(レビ記24:17-18)。「人を殺してはならない」、どの共同体にもある普遍的な戒めです。しかし、イエスは律法以上のものを私たちに求められます。イエスは言われました「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)。

律法では、相手を殺さない限り戒めには反しません。しかし、イエスは「実際に殺さなくとも、人を殺す場合があるのではないか」と指摘されます。イエスは言われます「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(5:21-22)。

・兄弟に腹を立てるとは、相手に怒りや憎しみの感情を持つことです。この個所において一部の写本では、「理由もなく(エイケー)」と付加されているそうです。「正当な怒りもあるはずだ、だからすべてを禁止すべきではない」との思いが写本への付加を行わせたのでしょう。しかし、イエスが言われるのは「たとえ正当な理由があっても、怒ることは罪だ」ということです。兄弟に対する怒りは、「自分が正しい」と思うからこそ生まれる、その正しさを捨てよとイエスは言われています。

・怒りはやがて、兄弟に対する“ばか”という言葉として、面に表れてきます。兄弟を軽蔑する言葉です。今日、「自己責任」という言葉がまん延し、「あなたが貧しいのはあなたが努力しなかったからだ」とか、「生活保護を受けている人は恥を知れ」等の攻撃が見られます。そのような言葉がどのように相手を追い込むのか、それは受け手を痛めつけ、場合によっては相手を自殺に追い込む。それが端的に表れるのは子供たちのいじめの現場です。「ウザイ」、「キモイ」、「シネ」、等の言葉が子供たちを追い込み、現在では16万人の子供たちが不登校になり、死を選ぶ子供たちもいます。いじめが原因の自殺が横行するように、言葉は相手を殺す力を持っているのです。

・兄弟を“愚か者”と罵るとは、兄弟に対して「あなたは神に呪われた存在だ」と罵倒することです。今日の社会の中で言い直すと、「生きる価値のない命」と罵倒し、次々と障碍者を殺していった神奈川県津久井やまゆり園の加害者がそうです。怒りの感情は昂進し、罰則も重くなります。ヤコブは言いました「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14-15)。怒りや憎しみが人を殺害という行為に走らせる、だから「腹を立てるな、兄弟をばかにするな、兄弟を罵るな」と言われます。とても大事な言葉です。

 

2.イエスは言われた「人を怒ることは人を殺すことだ」。

・「人を殺すな」という外面的な戒めであれば、誰でも守れます。しかし兄弟に腹を立てるという内面的なことまで殺すことと同じだと言われたら、私たちは途方にくれます。何故イエスはこのような高い水準まで要求されるのでしょうか。それは、人間の憎しみの感情を突き詰めると、相手がこの世に存在しなくなることを欲するまでになり、その怒りが殺人を生むからです。創世記4章にありますカインとアベルの物語はそれを示しています。カインは土を耕す者として、土の実りを主に捧げました。弟アベルは羊を飼う者として、羊の初子を主に捧げました。主はアベルの捧げ物を受け入れ、カインの捧げ物を受入れませんでした。何故かを聖書は語りません。世の中には理由のつかない不条理は常にあるのです。その不条理、弟が受入れられて自分は受入れられなかった理由のない不条理に対して、カインは怒り、弟アベルを憎みました。そのカインに主は言われます「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:6-7)。カインはアベルを殺しました。

殺人という行為は、兄弟に対して怒るところから始まるのです。

・イエスは律法の根本を、心の動きにまでさかのぼって問われています。人の心の動きまでご存知の方は神のみです。イエスが言われるのは「裁きの権能を神に返せ」と言うことです。神は何を望んでおられるのか、神は子たちの平和を望んでおられます。故に、「人を殺すな」という戒めは、「人と和解せよ」と言う戒めになります。イエスは言われます「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(5:23-24)。祭壇に供える、礼拝を捧げることです。礼拝で神の前に立つ時、私たちは今まで考えていなかった多くのことが急に思い出されます。罪の行為が次から次に浮かび上がってきます。神が思い出させて下さるのです。その時、私たちは為すべきことが見えてきます。「兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、行って兄弟と仲直りをしなさい」。礼拝の大事さ、週に一度神の前に立つことの意味がここにあります。

 

3.自分の正しさを捨てよ

 

・今日の招詞にエペソ2:14-16を選びました。次のような言葉です。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。私たちが自分の正しさを捨てきれず、正しさにこだわり続けた場合、憎しみは憎しみのまま残ります。だからイエスは自らの死を通して、私たちに和解の道を開いてくださりました。イエスは十字架上で自分を処刑しようとする者のために祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ24:34)。この祈りが、私たちを和解へと促します。私たちは、イエスの祈りに執り成されているゆえに、「そんなことは出来ません。悪いのは彼なのです。私は正しいのに、私の方から謝れと言われるのですか」という言葉を棄てるのです。私たちの方から相手に頭を下げる時にのみ、そこに和解が生まれます。そして私たちが人と和解できた時に、私たちは神とも和解できるのです。

・イエスは言われます。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(5:25-26)。ここでは終末が語られています。「命がある間に人と和解しなさい。やがて命の終わりの日が来て、あなたはすべてを裁きたもう神の前に立たされる。まだ間に合う、まだ生かされている。だから今隣人と和解するのだ」と。現在、日本は隣国の韓国と深刻な対立の中にあります。日本は半導体部品の輸出規制を行い、韓国は日本製品の不買運動や日本への旅行自粛を行い、双方の国民が苦しんでいます。国家間同士の対立において、双方に言い分はあるでしょうが、どこかで「正しさの主張」を止めないと、取り返しのつかない結果になります。双方の国のクリスチャン同士がイエスの言葉をもう一度考える必要があります。

・イエスはかつて、「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と言われました(5:39)。世の人びとはイエスの言葉を理解することが出来ません。共産党宣言を書いたカール・マルクスは言います「あなた方はペテンにかけられても裁判を要求するのは不正と思うのか。しかし、使徒は不正だと記している。もし、人があなた方の右の頬を打つなら左を向けるのか。あなた方は暴行に対して訴訟を起こさないのか。しかし、福音書はそうすることを禁じている」。マルクスにとって、山上の説教は愚かな、弱い者の教えでした。

・しかし私たちが求める救いはマルクスではなく、イエスにあります。イエスは十字架上で自分を殺そうとする者たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。この祈りの中に私たちの犯す罪の赦しがあります。だから私たちは、自分が受けた不正にさえ怒ることをやめるのです。イエスが教えてくれた主の祈り「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」を祈るからこそ隣人を赦していくのです。人生は短く、その終わりは見えています。「もし、不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が赦さなくともあなたは赦しなさい」。

・マザーテレサ「あなたの最良のものを」という祈りを想起します「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ、だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」と語られています。私たちは相手の心を変えることは出来ません。しかし、自分が変わることは出来ます。私たちが相手を赦した時にのみ、相手も私たちに心を開き始めます。そこに「人知を超える神の平和」が働き始めるのです。教会はその神の平和を知る場所なのです。

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