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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年9月24日墓前礼拝説教(詩篇90:3-6、10-12、死を委託する)

投稿日:2018年9月24日 更新日:

2018年9月24日墓前礼拝説教(詩篇90:3-6、10-12、死を委託する)

 

1.死を忘れるな

 

・今日、私たちは墓前礼拝を執り行います。このラザロ霊園には、三名のご遺骨(古川正康兄2000.2.17召天、中島ケイ姉2012.5.13召天、古川郁子姉2015.12.11)が納骨してあります。前回墓前礼拝を持ったのは2015年8月でした。それから3年の間に、古川郁子姉(2015.12.11召天)、山根開基兄(2016.01.23召天)、堀江エステル姉(2017.03.8召天)、猿渡清子姉(2017.11.22召天)の4名の方が召されて行きました。今後、私たちが死に召された時、私たちの遺骨もそこに加えられていきます。教会は亡くなられた個々の方を悼むことはしません。死とは天に帰る、天に召されることであり、悼む事柄ではないと信じるからです。しかし召されたお一人お一人を覚えて礼拝をします。今日、私たちは詩篇90編を通して死と生の問題について御言葉を聴きます。

・詩篇90編がまず私たちに語ることは「死を忘れるな」と言うことです。5-6節「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れます。人の一生もそのようなものだと詩人は歌います。私たちの人生は死によって限界付けられています。人は誕生し、少年期、青年期を経て壮年期に至ります。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来ます。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。長生きしても振り返ってみれば、一瞬の人生であり、生涯を終えた肉体は塵に帰ります。「人は塵だから塵に帰る」、詩篇90編が歌うのは「人生の無常」です。

・私たちは生まれ、死んでいきます。人生は誕生と死の間にあるひと時の時です。しかし、多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしません。聖書は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求めます。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(90:12)。これは非常に大事なことです。私たちは無意識の内に死を他人事ととらえています。それは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとせず、死について考えないとは現在の生についても考えないことを意味します。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。

 

2.死を委託せよ

 

・「私たちはどこから来て、どこへ行くのか。私たちはなにものか」、古来多くの人がこの根源的な疑問を抱いてきました。しかし、いくら考えても正解などなく、やがて考えることをやめます。それでなくとも忙しい。学校を卒業し、就職し、恋をして結婚する。子供が出来て、小さな家を買う。そのうち子どもは大きくなり、年老いた両親は介護が必要になる。考えなければいけないことは次から次へ出てくる」(森達也/私たちはどこから来て、どこに行くのか)。そして最後に私たちが死ぬ順番が来る。ある時立ち止まって、人生の意味を考えることが必要です。墓前礼拝はそのことを改めて考える時です。

・賀来周一牧師は、死を次のように語ります「人は生物としては必ず死ぬ存在である。その意味で、人の死は自然である。しかし他ならぬ『私が死ぬ』時は、事態は一変する。私の死は自然ではない。私にとって死は未知なるものである。未知なるものは人に不安を与える。だから人は死に際して、信仰の有り無しにかかわらず、この『私が死んだらどうなるのか』と問う・・・死は最も大きな不条理といってよいであろう。死に臨んでの人の思いに答えることができるものは宗教であり・・・必要とされるのは『委託する態度』である。委託、『委ねる』こと、『委託する勇気』が求められる」。「人は必ず死ぬ」、これは客観的事実です。「死んだ後に永遠の命に入る」、これは主観的真実です。信じることにより、真実となって行きます。

・ユダヤの知恵の教師コヘレトは語ります「短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない」(コヘレト6:12)。コヘレトのいう通り「人が死んだらどうなるのか、誰にもわからない」。確かにそうです。わからないから、私たちに出来るのは自分の死を神に委ねる生き方です。だから私たちの教会は墓碑銘を「神われらとともにいます」にしました。死後のことをあなたに委ねますという意味です。その時、私たちは「あきらめの死を死ぬ」のではなく、「良い死を死ぬ」ことができるようになります。

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