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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年8月19日説教(創世記24:1-27、約束の成就に向けて)

投稿日:2018年8月19日 更新日:

2018年8月19日説教(創世記24:1-27、約束の成就に向けて)

 

1.イサクの嫁探し

 

・創世記のアブラハム物語を読んでおります。アブラハムは年老い、死が近づいて来ました。彼は死を前に息子イサクに嫁を取らせ、一族の未来を確かなものにしたいと願い、同じ信仰の者を嫁に求めます。カナンの民はハム族であり、同族ではありません。当然に信仰のあり方も異なります。アブラハムは同じ民族(セム族)から嫁をめとるために、自分の故郷メソポタミヤに行くことを僕に命令します。創世記24章に展開されるイサクの嫁取り物語は、単なる部族の継承のためではなく、約束の継承の物語です。アブラハムは「あなたの子孫に土地を与える」(12:7)との約束を受けて、見知らぬ土地に旅立ちました。その約束の第一歩はイサクの誕生によりかなえられました。しかし神は新たな約束をアブラハムにされます「あなたの子孫を空の星の数ほど増やす」(15:5)、そのためにはイサクに嫁が与えられ、若夫婦から新しい命が誕生することが必要になります。創世記24章が67節もの長さでイサクの嫁取り物語を記すのはそのためです。

・アブラハムは召使いに語ります「手を私の腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたは私の息子の嫁を私が今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように」(24:2-4)。ユダヤの律法は異邦人との結婚を禁止します(申命記7:3-4「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになるからである」)。神を知らない民との婚姻は、信仰の継承を難しくする恐れがあったからです。

・アブラハムの命を受け、メソポタミヤに向かったのは、家令のエゼキエルであったと思われます(15:2)。彼は嫁を迎えるための条件を主人に確認します。「もしかすると、その娘が私に従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか」(24:5)。アブラハムは答えます「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、私に誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることが出来るようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は私に対するこの誓いを解かれる」(24:6-8)。アブラハムは神の促しに従って、全てを捨てて見知らぬ土地に旅立って来ました。イサクの嫁もまた、神の促しを受けて、すべてを捨てて決然と見知らぬ地に旅立つ人間でなければいけない、それが約束の成就を満たす嫁の条件だと思ったのでしょう。そして「約束して下さったその方がお前の行く手に御使いを遣わして下さる」、嫁の選びに神が関与されるとアブラハムは信じています。

 

2.嫁リベカの選び

 

・こうして召使はアブラハムの故郷、メソポタミヤに嫁を迎えるために旅立ちました。一カ月の道のりを超えてアブラハムの故郷にたどり着きます。その地に着いた召使が最初に行ったのは祈りでした。彼は祈ります「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示して下さい。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来た時、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が『どうぞ、お飲みください。駱駝にも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせて下さい」(24:12-14)。信仰者は行為を祈りから始めます。

・その結果、召使いは、リベカに出会います。「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった」(24:15-16)。僕が「水がめの水を少し飲ましてください」と頼むと、リベカは即座に「駱駝にも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と答えます(24:19)。当時の井戸は丸井戸で、階段を降りて泉の底に行き、水を汲んで階段を上る仕組みです。10頭の駱駝に水を飲ませるためには、井戸の底まで何十往復もしなければいけない、そういう労をいとわず奉仕する女性こそ、イサクの嫁にふさわしいと召使いは考えたのです。リベカこそ嫁にふさわしいと見た召使いは、彼女に贈り物として金の鼻輪と腕輪を与え、家に案内するように頼みます。

・リベカはアブラハムの親族ナホルの一族でした「私は、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」(24:24)。リベカの知らせで彼女の兄ラバンが来て、召使を家に案内し、召使は「リベカを主人の息子の嫁に迎えたい」と話し、ラバンも同意します「このことは主の御意志ですから、私どもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになった通り、御主人の御子息の妻になさって下さい」(24:50-51)。リベカも同意し、彼女の嫁入りが決まりました。創世記は「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した」(24:52)。信仰者の行為は祈りから始まり、礼拝で終わります。

・こうしてリベカは見ず知らずのイサクの許に嫁ぎます。彼女もまた「信仰によって・・・行く先も知らずに出発した」(ヘブル11:8)のです。彼女はやがてヤコブとエソウの二人の子を生みます。神の約束はリベカを通して、ヤコブに継承されていきます。創世記は記します「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(24:67)。旧約聖書において、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。こうして一族の土台が、約束の土台が固められていきます。

 

3.この物語から何を学ぶか

 

・アブラハムも召使もリベカも、結婚を神の定めに従う出来事としてとらえています。アブラハムの僕は主の御心を求めて祈り、示された御心に従いました。ラバンとベトエルも「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れていきます。人生が神の定めの許にあるとする生き方を私たちはここで学びます。今日の招詞にマタイ19:4-6を選びました。次のような言葉です「イエスはお答えになった『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない』」。結婚によって子が生まれ、子が約束を継承して行きます。私たちにおいても、子の結婚相手に信仰者を求める、あるいは信仰の誓いを求めることは、信仰の継承という意味で、大事な事柄です。

・現代においては、結婚は「両性の合意によって成り立つ」(憲法24条)とします。両性の合意、人間的な価値判断に結婚が委ねられ、その結果、三組に一組が離婚するようになっています。2012年度人口動態調査によれば、年間の結婚数は668千組、離婚数は235千組、離婚率は35.1%です。今日の社会では、まず二人が出会って知り合い、愛し合い、結婚して家庭を築くことが正しいことだと言われていますが、その結果、離婚がとめどなく増加し、家庭崩壊に歯止めがかからないという現実が起こっているのです。

・本当に祝福された結婚とは、「お互いが愛し合っているのか」、「理解し合っているのか」に基礎を置くのではなく、「その結婚が主の御心にかなったものであるかを祈る」ことに基礎を置くべきだと思います。なぜなら人間の愛はやがて変質するからです。創世記24章では、アブラハムも召使もリベカも、結婚を神の定めに従う出来事としてとらえています。アブラハムの僕は御心を求めて祈り、示された御心に従いました。ラバンとベトエルも「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れていきます。このような結婚の神聖性が現代でも必要です。何故ならば、「両性の合意」、エロスの愛はやがて崩れるからです。

・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。前にご紹介した本田哲郎司祭はそれを次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」。

・「エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる」、人間の愛に基礎を置く結婚は崩れやすいことを、現代の高い離婚率は示していると思えます。創世記24章の物語は古臭い結婚観を示すのではなく、現代の私たちにも大きな意味を持ちます。結婚は「好き嫌い(エロス)」で為されるものではなく、「互いを尊敬できるか(アガペー)」が判断基準になるべきなのです。カトリック教会のカテキズムは、「結婚は自然の現実であり、男と女というペルソナの存在に呼応するものである。その意味で、神ご自身が婚姻の創設者である。結婚への召し出しは創造主によって造られた男女の本性に刻みこまれている」とします。私たちは、「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かう」という摂理を信じます。私たちは自分の力ではなく、神によって生かされていると信じます。そうであれば、人生の途上における結婚も信仰の出来事であるし、結婚生活の困難や破綻の問題もまた信仰の出来事、神から与えられた宿題として、心を静めて祈って、決断していく生き方が必要なのだと思われます。

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