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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年7月8日説教(創世記12:10-20、試練と回心)

投稿日:2018年7月8日 更新日:

2018年7月8日説教(創世記12:10-20、試練と回心)

 

1.アブラハムの信仰の揺らぎ

 

・創世記12章後半は、約束の地に導かれたアブラハムに与えられた試練についての物語です。アブラハムはメソポタミアのウル(現在のイラク)に住んでいましたが、「その地を離れて、私の示す土地へ行け」(12:1)という神の召しを受け、故郷を離れ、カナン(現在のパレスチナ)の地に行き、そこに祭壇を築いて「主の御名を呼びます」(12:8)。ところが約束の地で最初に与えられたものは、飢饉でした。「行けと言われて来たのに、来て見ると、食べるものもない。このままでは一族郎党、みんなが死んでしまう。自分は本当に神に召されたのだろうか、召されたのであれば何故」、アブラハムの信仰は動揺したと思います。

・彼の前には三つの選択肢がありました。一つは約束が幻だったとして故郷に戻ることです。故郷メソポタミアは豊かな土地であり、飢饉もありません。二つめは、約束をなおも信じてカナンの地に留まることでした。神は「あなたを祝福する」(12:2)と言われたのだから、養って下さると信じて留まり続ける道です。三つめの選択肢は、しばらくの難を逃れるために、食糧のある地に行くことでした。信仰的には留まることが望ましいと思われますが、当時のアブラハムにはそこまでの信仰はありませんでした。何故ならば、導かれる神がどのような方であるかを彼はよく知らなかったからです。

・アブラハムは、三つめの選択をして、食糧を求めて、豊かな穀倉地帯のエジプトに下ることにしました(12:10)。アブラハムは依然として信仰者です。しかし、今、彼は神の御旨を問うことをせず、自分の力を頼みにします。その結果、信仰は不従順となり、内側から挫折していきます。挫折した信仰は憂いを招き、憂いは不安をもたらします。彼は妻サラがひときわ優れて美しいことが気になります。不安に駆られたアブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。

・アブラハムの懸念は現実となりました。エジプトに着くや、人々の視線は美しいサラの上に集中し、うわさは宮廷にも届き、エジプト王(ファラオ)はサラをハーレムに迎え入れます。そしてアブラハムはサラの兄として王から富を与えられます。「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」(12:16)。新参の外来者が妻の出世によって裕福な財産家になりました。アブラハムは信仰の父といわれる人ですが、その人が、生涯の始めにおいては、妻を妹と偽って、彼女を王に売って身の安泰を保ち、金持ちになったという経歴を持ちます。

・この聖書記事がナチス・ドイツのユダヤ人迫害の一つの理由とされたそうです。アドルフ・ヒトラーは語ったそうです「これがユダヤ人だ。すでにその父祖たちにおいて後のユダヤ主義の宿命的兆候が確認できるではないか。旧約聖書は忌まわしい物語だ」と(ヴォルター・リュティ「アブラハム」から)。確かにアブラハムの行為は世渡りとしては賢い行為かも知れませんが、信仰者としては卑しい行為であり、何よりも神の約束を反故にする行為です。非難されても仕方がない。しかしヒトラーの知らない神の物語はここから始まります。

 

2.神の救済と赦し

 

・主はアブラハムとサラを救出されます「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(12:17)。恐ろしい病気、疫病の蔓延です。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知らされ、彼に問いかけます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」です。創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、また弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われました(4:10)。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われたのです。信仰の人、アブラハムは恥ずかしさのあまり、下を向いたことでしょう。

・しかし主はそのようなアブラハムを見捨てず、彼との約束を守られます。創世記は記します「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」(12:20)。アブラハムは与えられた家畜や金銀を持って妻と共にエジプトを去ります。「罪を犯したのに神は私を赦してくださった」、私たちの信じる神は、私たちの想像も及ばないような方法で私たちを恵まれます。ここでの神は、エジプトのファラオを用いて、アブラハムをもう一度立ち上がらせるのです。

 

3.アブラハムの回心

 

・今日の招詞に創世記13:3-4を選びました。次のような言葉です「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。口語訳では「彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。「アブラムは主の名を呼んだ」、アブラハムはエジプトから約束の地カナンに戻ると、最初に主を礼拝したのです。アブラハムは主の導きを信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきました。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることでした。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まったのです。悔い改めた罪人は自分の罪、弱さを知る故、他者を赦すことができます。罪の赦し、これこそ旧新約聖書を通じた福音です。

・私たちが順調な時には、あるいは自分の力で生きていると思っている時には主に出会いません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼び、その時、私たちは主と出会います。私たちは災いや苦難を通して自分の真実な姿を知り、神を求めます。その意味で、災いや苦難は、神から与えられる祝福であり、私たちは涙を通して救われていくのです。アブラハムは、ハランでの召命、カナンでの信仰の揺らぎ、エジプトでの罪と恥ずかしさを通して、信仰者として立てられて行きました。創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語ですが、12章後半は罪人アブラハムの物語です。そしてそのどちらもがアブラハムなのです。

・悔い改めた罪人は新しい生き方をします。アブラハムはエジプトで手に入れた多くの財産を持ってカナンに帰ってきました。一緒に行った甥のロトもまた多くの家畜を持つ者となります。そして「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」(13:7)と創世記は記します。多くの家畜を飼うだけの十分な水と草がそこには無かったからです。先には食べることの出来ない飢饉という試練がアブラハムを襲いましたが、今度は多くを持ちすぎる故の試練がアブラハムを襲います。しかし、今のアブラハムは、もう自分の力に頼る人ではなく、神の召しを聞くものに変えられています。彼はロトに言います「私たちは親類どうしだ。私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも、争うことはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう」(13:8-9)。

・一方には肥沃なヨルダン川流域の草地があり、他方には水も牧草も乏しい荒野があります。牧羊者であれば、誰でもヨルダン川流域を選びますが、アブラハムは選択権を甥のロトに委ねました。叔父であり、年長者であり、強者であるアブラハムが、甥であり、年少者であり、弱者であるロトに選択上の優先権を与えたのです。罪を犯して無条件で赦されたアブラハムは、今は、赦して下さった方の御旨に従おうと決意しています。だから彼は自分の望みを優先せず、相手の望みを優先し、争いは回避されました。アブラハムが自己の生存権を自力で守ろうとしたら争いは拡大したでしょう。今のパレスチナで戦争が続くのも、お互いが自己の生存権を主張して譲らないからです。アブラハムは新しい土地を示されました。生活者としてのアブラハムの心は平安ではなかったでしょう。ロトの選んだ地の方が良いに決まっています。その彼に神は言われます「目を上げよ、下を向くな。私はあなたと共にいる。私の祝福はあなたにある」(13:14)。アブラハムはその地で祭壇を築いて主を礼拝します「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた」(3:18)。もしヒトラーが創世記12章だけでなく13章も読んだら彼は言うかもしれません「旧約聖書は確かに神が導かれた物語だ」と。

・人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されましたが、主は二人に革の衣を与えて保護されます(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られます(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られます(13:2)。私たちの信仰生活もそうです。バプテスマを受けても何も変わらない、主日礼拝を守っても日常生活は変えられない、むしろ罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていくのです。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのです。

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