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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年7月29日説教(創世記21:1-8、不信仰を信仰に変えて下さる主)

投稿日:2018年7月29日 更新日:

2018年7月29日説教(創世記21:1-8、不信仰を信仰に変えて下さる主)

 

1.イサクの誕生

 

・創世記を読み続けています。創世記では12章から人間の歴史が記述され、その最初が“信仰の父”と言われるアブラハムです。アブラハムはメソポタミアのウルに住んでいましたが、75歳の時に、召命を受け、「行き先も知らないで出て」行きました(12:4-5)。そしてアブラハムはカナンの地に導かれます。主はアブラハムに約束されます「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(13:15-16)。アブラハムは子がいませんでしたが、この約束を信じます。しかし、子はなかなか与えられず、アブラハムと妻サラは次第に年を取っていきます。

・25年の時が流れ、アブラハムは100歳に、妻サラは90歳になっていました。その時、主は再びアブラハムに現れます「私はあなたの妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする」(17:16)。アブラハムは心の中では笑いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17:17)。90歳にもなり、月のものもなくなった老齢の妻が子を産むことができるはずがない。アブラハムは神の言葉を笑いました。不信の笑いです。

・そのアブラハム夫妻に、長い間約束されていた子が、終に与えられました。それが今日読みます創世記21章の個所です。創世記は記します「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した」(21:1-4)。アブラハムは子にイサクという名前を与えます。イサク(ツェホーク、笑う)、高齢のアブラハム夫妻に笑いが与えられたのです。この笑いは先の不信の笑いと異なり、喜びの笑いです。サラは不可能を可能にする神を賛美して歌います「神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう・・・誰がアブラハムに言いえたでしょう、サラは子に乳を含ませるだろうと。しかし私は子を生みました、年老いた夫のために」。当時の女性にとって子を生まない、生めないことは屈辱でした。主は私の屈辱を晴らして下さったとサラは喜んだのです。

・イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳でした。不可能を可能にする神の業が示されました。後代の聖書記者は二人の信仰がそれを可能にしたと讃えます。パウロはローマ書の中で語ります「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていた通りに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。(ローマ4:18-22)

 

2.信じない者に恵みを与えられる主

 

・しかしパウロの称賛は創世記に書かれた事実とは異なります。創世記のアブラハムは「不信仰に陥って神の約束を疑」ったし、サラも信じなかったのです。創世記は不信仰者のアブラハムとサラに子が与えられたことを明記します。「神は人間の不信にもかかわらず、必要な業をなさる」、創世記が語るのはそのダイナミックの福音なのです。17章で私たちは見たのは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17:17)というアブラハムの疑いの言葉です。「子を与える」との約束は果たされないままに二人は老齢になり、妻は生理も止まっていました。アブラハムは神の言葉を信じませんでした。

・それからしばらくして、三人の御使いがアブラハムの前に現れ、再び子が生まれるとの約束が為されます。子を与えるという約束が実現しないうちに、アブラハムは100歳に、妻サラは90歳になっています。サラはその預言を聞いて笑いました「私は衰え、主人もまた老人であるのに、私に楽しみなどありえようか」(18:12)。サラもまた神の約束を信じませんでした。あまりにも長い間、約束は果たされず、望みは尽きていました。信じることが出来ない状況に置かれていたのです。絶望が不信仰を生み、不信仰が嘲笑を生みました。二人が信じることが出来なかったのは当然です。しかし主の使いは言います「主に不可能なことがあろうか」(18:4)。私たちの目の前の現実が全てふさがれ、将来の道が見えない時、なお神を信じ、主に不可能はないと言いうるのか。その信じることの出来ない不信仰者が信仰者に変えられていく奇跡が起こる、それが今日の創世記21章の記事です。

 

3.その神を信じていく

 

・約束通り、サラに子が与えられました。「主は私に笑いを与えて下さった」、サラとアブラハムは喜びます。不可能を可能にする神の業が今、示されたのです。今日の招詞に創世記22:8を選びました。次のような言葉です「アブラハムは答えた。『私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる』。二人は一緒に歩いて行った」。イサクが成長した時、主はアブラハムに「イサクを焼き尽くす献げ物として捧げなさい」と命じられます(22:2)。イサクをほふり、犠牲として、捧げよとの命令です。

・イサクは何十年間もの祈りの結果、やっと与えられた子です。イサクを通して子孫を星の数ほどに増やすと約束された子です。生まれた時には、笑いが、歓喜が、両親を包んだ子です。「その子を殺せ」と命じられます。「何故なのか」、アブラハムには主の御心がわかりません。しかし、彼は一言も反論せず、主の命に従います。彼はイサクを連れてモリヤの山に向かいます。途中でイサクは父に尋ねます「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。それに対するアブラハムの返事が今日の招詞です「子よ、必要なものは神が備えて下さる」。

・創世記をここまで読んできて、何故アブラハムに、長い間子が与えられなかった、何故、二人が高齢になるまで約束が実現しなかったのか、その理由が見えてきます。長い、辛い、年月を通さなければ、本当の喜びは与えられないのです。望み得ない状況の中で、約束が果たされることを見て、初めて、「主に不可能はない」ことを私たちは知ります。不可能を可能にされ、約束を守られる方であれば、イサクを捧げよとの命令にも意味があることを信じることが出来ます。「何故イサクを捧げよと言われるのかわからないが、この方が言われる以上、従っていこう。必要なものは備えて下さる」、アブラハムはそう信じました。だから一言も反論せずに、イサクを捧げようとするのです。

・アブラハムがモリヤの山に着き、イサクに手をかけて殺そうとした時、主が介入され、止められます。そしてイサクの代わりに一匹の羊が与えられ、アブラハムはその羊を焼き尽くす献げ物としてささげます。主が備えて下さったのです。“主は備えて下さる”、ヘブル語「アドナイ・エレ」(口語訳)です。“備える=エレ”は、英語では“provide”です。”pro=前もって、vide=video=見る、前もって見る、ここから“Providence=摂理”という言葉が生まれました。信仰とは、この神の摂理を信じることです。私たちは神によって生かされていることを信じることです。

・前に、ヨセル・ラコーバーという人をご紹介しました。1943年ワルシャワのゲットーで殺されていったユダヤ人です。ワルシャワのユダヤ人たちは反乱を起こし、ドイツ軍の攻撃の中で、次々に殺され、彼の妻と子どもたちも死に、一人ヨセルだけが生き残りました。彼は戦火の中で手記を書き、それを瓶の中に入れ、煉瓦の裏に隠しました。やがてヨセルも炎に包まれて死んで行きました。戦後、その手記が発見され、出版されました。彼は書きます「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。ここに死を超えた救済の信仰、極限の信仰があるように思います。

・「神は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された」。私たちの生涯の中で、何故このような苦しみや悲しみが与えられるのか、わからない時もあります。しかし、わからなくとも良い。すべては主の摂理に中にあるのであれば、いつかわかる時が来る、その信仰です。アブラハムが体験したことは私たちにも起こりえます。その時、“アドナイ・エレ=主備えたもう”という言葉を、私たちが信じることが出来れば、人生はそれで良いのではないでしょうか。

・私たちの人生の目標は何なのでしょうか。約束の地をいただく、あるいは約束の子をいただくことなのでしょうか。家族がいつまでも幸せに生きることでしょうか。しかし最終的には、土地も子も家族もいらないと思います。私たちは天の御国を目指して、この世を旅する寄留者なのです。私たちは与えられた生を一生懸命に生きる、その時、ただ、「主が共にいませば」、「主が備えて下されば」、それでよいのです。 “アドナイ・エレ”、パウロはこの信仰を次のように語りました「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(2コリント1:10)。この信仰をいただければ他に何もいらない、この信仰があれば私たちは充実した人生を送りうる、それをアブラハムの生涯は示しています。世の中では、多くの人が絶望の中で自殺しています。私たちは彼らに、どのような状況の中でも主が道を備えて下さることを伝え、その命を救う責務があります。御言葉は命にかかわる言葉なのです。

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