2018年2月4日説教(マルコ5:1-20、疎外からの回復)
1.ゲラサの悪霊つきの男の癒し
・マルコ福音書を読んでいます。イエスはガリラヤ湖畔の町々、村々を訪れて宣教されていましたが、ある日、「向こう岸に渡ろう」と言われて、舟で対岸の地に渡られました(4:35-36)。ガリラヤ湖の対岸は異邦人の地であり、デカポリス(十の町)と呼ばれ、ゲラサ人(ギリシャ人)が住み、ローマ帝国の直轄領でした。今日のシリア地方になりますが、ユダヤ人にとっては、異邦人の地、律法が不浄とみなす豚を飼っている汚れた地でした。イエスはそのゲラサの地で一人の男に出会われます。この出会いから物語が始まります。
・マルコは語り始めます「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」(5:1-2)。異様な状況で物語が始まります。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった・・・彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」(5:3-5)。当時の墓地は山や谷の洞窟を利用して造られていました。この人は死体に囲まれて一人で暮らしていたのです。「度々足枷や鎖で縛られた」とありますから、彼は精神の病のために自分や他人を傷つけ、家族も手に余って、この人を町外れの墓場に閉じ込めていたのでしょう。彼は絶望のあまり、夜昼叫び、石で自分の体を傷つけていました。家族から捨てられ、共同体からも追放され、うめいていたのです。当時の人々は、このような状態を「汚れた霊に取りつかれた」と呼んでいました。
・マルコは続けます「(この人は)イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい』」(5:6-7)。悪霊たちが叫びだしたのでしょうか。イエスは霊たちに名前を聞かれました。霊たちは答えます「名はレギオン、大勢だから」(5:9)。この言葉は象徴的です。レギオンはローマの軍団(6000人隊)の呼び名で、当時のデカポリスはローマ軍団(レギオン)の占領下にありました。マルコ福音書のこの人も、ローマ軍の残虐行為を経験して狂気に陥った可能性があります。ある解釈者(ゲルト・タイセン)は「この悪霊は死者の霊であり、ローマへの抵抗運動で殺された戦死者の霊ではないか」と推測します。
・イエスは悪霊たちに、「この男から出ていけ」と言われました。悪霊たちは「この地に留まらせてほしい、あそこにいる豚の群れの中に入らせて欲しい」と願います。やがて、悪霊たちが乗り移った豚は狂気に駆られて暴走し、2000匹の豚が湖に沈んで死んだとマルコは報告します。グニルカという新約学者は「マルコは悪霊の乗り移った豚が次々に溺れ死ぬという物語の結末を提供して、今は圧倒的な力で支配しているかに見えるローマの政治権力もイエスの支配の前に崩壊せざるを得ないと告げているのではないか」と理解します(EKK聖書注解)。異様な光景が語られています。
・豚の番をしていた豚飼いたちは驚いて、町の人々を呼びに行き、町の人々は自分たちの豚が湖に沈み、男が正気になっているのを見ました(5:15)。人々にとって男が正気になったのは何の喜びでもありません、既に棄てていたからです。しかし、人々にとって豚2000匹は貴重な財産でした。ゲラサの人々にとって、イエスは自分たちの大事な財産を犠牲にしても一人の男を救おうとされた得体のしれない男、自分たちの日常を破壊する男、だから「出て行ってくれ」と言いました。
2.この物語は私たちの物語ではないか
・現代においても悪霊は存在するのでしょうか。20数年前にユーゴスラヴィアで内戦が起こり、連邦を形成する各民族が独立を目指して10年間に渡って内戦状態になりました。ユーゴでは、異なる民族が長い間、共に暮らしていましたが、ソ連崩壊に伴う民族主義の高まりの中で、ある日、指導者たちが「隣人は憎むべきイスラム教徒である」と叫び始めると、その声に踊らされて人々が殺し合いを始めました。同じような出来事がルワンダでもインドネシアでも起りました。何故、人々は隣人と殺し合い、狂おしいほど残虐になるのでしょうか。聖書はそれを悪霊、レギオンの故と言います。この悪霊の力を打ち破るためにイエスは来られたとマルコは述べます。
・悪霊につかれたゲラサの人は、現代では統合失調症と分析されるかもしれません。この病気は妄想・幻覚・幻聴が生じ、治癒は難しい病気です。患者が自分を傷つけたり他人を傷つけたりする恐れがあれば、法律により強制入院させられます。神学生の頃、牧会実習で1年間、精神科病院に通ったことがあります。病院の多くは閉鎖病棟で、治療と言うよりも隔離に近い状態です。日本で精神の病に苦しむ人々は100万人、その内30万人は入院し、精神の病気の場合、5年、10年、さらには20年と入院期間が長いのが特徴です。治っても帰る所がないからです。ゲラサの男は夜昼叫んで、体を傷つけていました。回復の希望がなかったからです。日本においても精神科病棟の中に多くのゲラサの人がいると考えた時、この物語は私たちの物語になります。マルコの描く世界は現代日本の物語なのです。
・また病院の外にも狂気があります。2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大被告は派遣労働者として「もののような扱いを受けていた」と告白しています。社員の人事を扱うのは人事部ですが、派遣労働者は調達部が担当していました。事件の背景に犯人の疎外感があったと言われています。6年後、加藤被告の弟は遺書を残して自殺しました「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なのだと思い知りました。加害者の家族というのは、幸せになっちゃいけない。それが現実。僕は生きることを諦めようと決めました。死ぬ理由に勝る、生きる理由がない。何かありますか。あるなら教えてください」。この社会は居場所をなくした人を追い詰める世界、悪霊が暗躍する社会なのです。
3.悪霊につかれた男が伝道者になった
・ゲラサの男は墓場に住み、イエスに言いました「かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と。それでもイエスはこの男と関わりを持たれました。「かまわないでくれ」という人に、神は関わりを持たれるのです。今日の招詞に詩編68:7を選びました。次のような言葉です「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。背く者は焼けつく地に住まねばならない」。イエスは来る必要のない異邦人の地に来られ、声をかける必要のないこの人に声をかけられました。イエスは土地の人から疎まれる危険を冒して男を憐れまれました。その結果、彼は正気になり、人間社会に復帰する事ができました。癒された男は「イエスに従いたい」と申し出ますが、イエスは「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われます(5:19)。
・マルコはその後の出来事を報告しています「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた」(5:20)。「言い広める」という言葉はギリシャ語「ケッリュソウ=宣教する」という言葉が使われています。マルコは福音書を書くためにいろいろな地方を訪ね、イエスに関する諸伝承を集めたと思われます。その時、この異邦人の地デカポリスに教会があり、その教会に、「ゲラサの悪霊つきと呼ばれた男がイエスに癒され、その後、伝道者になってこの地に教会を立てた」という伝承が残されていたと推測されます。
・仮にそうであれば、ここには偉大な物語が記されていることになります。「自分の家に帰りなさい」と言われた人が、「主があなたに何をしてくださったかを知らせなさい」というイエスの命に従って伝道者となり、その実りとして教会が立てられたことを、マルコは報告しているのです。「汚れた霊につかれた人が宣教者になった」、まさに詩編68篇が歌うように「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださった」のです。ここには疎外状態にあった一人の人物の人間回復の物語があります。「死んでいた人が生き返った」、「いなくなっていた人が見つかった」という喜びの知らせがあります。
・このことは現代の私たちにも勇気を与えます。私たちの周りにも、抑圧のために外に出ることが出来ず、家に引きこもっている人がいます。安定した職につけず、将来に希望を失っている人がいます。心身の病気のために礼拝に出ることが出来ない人を覚えます。その人たちに、私たちが「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる」との福音を伝え、その人と祈りを共にする時、そこに何かが生まれます。汚れていた霊にとりつかれて石で自分の身を傷つけていた人が、イエスと出会いを通して、イエスに従う者になりました。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」という言葉に従う時、そこに神の業が現れます。マザーテレサにある人が言ったそうです「カルカッタの伝道はすばらしい。私にも何か手伝わせて下さい」。その人にマザーは答えました「まずうちに帰って、あなたの家族と周りの人に福音を伝えなさい」。イエスは狂気を癒やされた男に「あなたはこの地にとどまってなすべきことをしなさい」と言われました。私たちも「家族と周りの人に福音を伝える」ために、召されているのです。