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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年12月23日説教(マタイ2:1-15、新しい王が生まれた)

投稿日:2018年12月23日 更新日:

2018年12月23日説教(マタイ2:1-15、新しい王が生まれた)

 

1.イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれられた

 

・クリスマスを祝う礼拝の時になりました。今年のクリスマスに、私たちはマタイ2章を読みます。マタイは記します「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来た」(2:1)。東の方から、バビロンを指します。かつてユダヤ人を捕囚として苦しめた、その異邦の地バビロンから、占星術の学者たちが救い主を拝むために来たとマタイは記します。当時は占星術が盛んで、人々は天体の異変を見て未来を知ろうとしました。イエスの生誕は紀元前7年とされていますが、この年にイスラエルを示す土星と世界の支配者を指す木星が接近して異常な輝きを示したことが文献で確認されており、その現象は794年に一度の出来事であることから、天文学者ケプラーはキリストの生誕年を前7年と推定し、現在に至っています。マタイは、この星を東方の占星術師たちが見て、「パレスチナに世界を救う王が生まれた」と示されて、その星を追ってユダヤに来たとします。

・占星術の学者たちはユダヤに王が生まれたのであれば、そこはエルサレムの王宮に違いないとして来ました。彼らは尋ねます「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。「ユダヤ人の王が生まれた」という言葉は、当時のユダヤ王ヘロデを不安にしました(2:3)。ヘロデはイドマヤ出身の異邦人であり、ローマ軍の後押しを受けてユダヤ王になりましたが、民衆の支持はありませんでした。ヘロデは正当性を保つためにユダヤのハスモン王家の血を引く女性を妻にむかえますが、彼女が王位を覗っているとの猜疑心にかられて妻を殺し、妻の母や兄弟を殺し、三人の子をも反逆の疑いで処刑しています。このようなヘロデですから、占星術師たちの言葉に自分の王位を脅かす者の出現を予感し、不安になったのです。

・彼は「メシアは何処に生まれるのか」と祭司長たちに質しました。祭司長たちはミカ書の預言から、それはベツレヘムであると答えます。「ユダの地、ベツレヘムよ・・・おまえの中から一人の君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」(2:6)。新しい王の誕生を聞いて、エルサレムの指導者たちも不安を感じたとマタイは記します(2:3)。現状に満足する者にとって神の子の出現による世の変革は現状否定であり、不安をもたらしたのです。祭司長たちはメシアがベツレヘムで生まれるとの預言を知り、今またメシアが生まれたとの報告を聞いても、誰も礼拝に行こうとはしません。

・占星術師たちはベツレヘムを目指してエルサレムを出発します。東方でみた星が彼らに先立って進み、彼等はイエスとその両親が住む家に導かれ、幼な子を拝し、黄金・乳香・没薬を献げたとマタイは記します(2:11-12)。その後、「ヘロデのもとに帰るな」という啓示を受けたため、彼等は別な道を通って故国に帰って行きました。他方、御使いはイエスの父ヨセフに現れ、「ヘロデが命を狙っているのでエジプトに逃げよ」と指示し、ヨセフはマリアと子イエスを連れてエジプトに逃れたとマタイは記します(2:13)。マタイはその後ヘロデがベツレヘムに軍隊を派遣し、2歳以下の男子を全て殺し、ベツレヘムには子が殺されたことを嘆く母親の泣き声が鳴り響いたと記します(2:18)。


2.信仰の視点から見えてくること

 

・ここにマタイが記しますことは、彼が受けた伝承です。その伝承は、バビロンの地から三人の占星術師がイエスの誕生を祝うために訪問した、ヘロデがそれを聞いて不安になり幼子の命を狙ってベツレヘムの子供たちを虐殺した、危機を告げられたイエスの両親が幼子を連れてエジプトに逃れたという内容が含まれていました。現代の私たちは、この伝承が歴史的な出来事であるのかどうかの検証はできません。しかし、そもそも出来事の歴史性を問うことは無意味なことです。何故ならば、マタイは歴史を記述しているのではなく、彼の受けた伝承を信仰の視点から記述しているからです。この伝承が現代の私たちとどのように関わるのか、そのことを、代々木上原教会前牧師の村上伸先生の説教をもとに考えてみます(2005・12・25、代々木上原教会説教「イエス誕生の意味」から)。

・村上先生は語ります「クリスマスに聖書を読んで私たちが出会うのは、美しい話ばかりでない。当時の人々の胸騒ぎや心配、血も凍るような恐怖も伝わってくる」。ヘロデは「新しい王が生まれた」との言葉に、自分の王位を危うくする者が現れたとして、ベツレヘムの子供たちを虐殺します。村上先生は書きます「この災いを逃れるために両親たちは生まれたばかりの幼子を連れてエジプトに逃れた。つまり主イエスは生まれるとすぐに難民になったのである」。村上先生は続けられます「イエスの母は未婚で妊娠し、世間の冷たい目にさらされ、母マリアが産気づいたのは旅先で、どこの宿にも泊めてもらえず、そのために赤ん坊は馬小屋で生まれ、ぼろ布でくるまれて飼い葉桶の中に寝かされた」。「成人して、宣教活動を始められてからは、自ら『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』(8:20)といったような貧困の中で過ごし、最後は十字架刑の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(27:46)と絶望の叫びをあげてその生涯を終えた。このような一生を送るためにイエスはこの世に生まれた。これは何を意味するのだろうか」。

・イエスの生涯を彩るキーワードは、「幼児虐殺」、「難民」、「未婚の母」、「ホームレス」、「貧困」、まさに現代の私たちが直面するのと同じ苦しみ、悲しみをイエスは既に体験されています。神学者モルトマンが語るように、「イエスは私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたからこそ、私たちの真の希望となりうる」のです。このような方、私たちの苦しみや悲しみをご存知の方、インマヌエル(共におられる方)が、私たちの主、救い主であるとマタイはクリスマス物語を通じて証ししています。

 

3.拒絶する者と受入れる者

 

・今日の招詞にヨハネ1:11-12を選びました。次のような言葉です「言は、自分の民のところへ来たが、民は受入れなかった。しかし、言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。神の民となるべく養育されてきたユダヤ人はイエスを拒絶しましたが、異邦人はイエスを受け入れ、その結果救いが全人類に及ぶようになったとヨハネは語ります。マタイが自分の福音書2章で述べている事柄、異邦人の占星術師たちは遠くからイエスを拝みに来たが、エルサレムのユダヤ人たちはイエスを拒否した事実を、ヨハネは別の視点から告白しています。

・私たちは20世紀を終えて、21世紀に生きています。20世紀は「科学と技術の世紀」と言われました。科学技術の進歩により私たちの寿命は延び、人口は増え、豊かになりました。しかし私たちは幸福にはなっていない。科学技術の進歩は他方で大量殺戮兵器を生み出し、この兵器を用いて人間は殺し合いの規模を拡大させていった。20世紀はまた「戦争と殺戮の世紀」でもあります。二度の世界大戦を経験したにもかかわらず、人類は戦争を、民族の争いを乗り越えることが出来ません。現在も争いは繰り返され、イラクやアフガニスタンでの戦争は、テロとの戦いの枠を超え、白人とアラブ人の、キリスト教徒とイスラム教徒の民族紛争の様相を強めています。異なる民族の争いはパレスチナにおいても、アフリカにおいても繰り返されています。戦争の多くは民族紛争に起因します。人間は民族の壁を乗り越えることが出来ない、それは人間が民族を超える神の存在を受入れることを拒否したからだとヨハネは語ります「言は、自分の民のところへ来たが、民は受入れなかった」。

・しかし少数の人はこの神を受入れました。そして「言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。自分を超えるもの、民族を超える神を見出した時、人は初めて自分と異なるものを受入れることが出来ます。人が自分の主張や思想から解放されない限り他者を受入れることが出来ず、他者と争いを繰り返さざるを得ません。どうすれば自己中心から解放されるのか、神は全ての人の神であることを受入れることしかありません。マタイの教会ではすでにユダヤ人も異邦人も共に礼拝をしていたと思われます。だからこそ東方の占星術師たちの来往をマタイが自分の福音書で大きく取り上げているのでしょう。同じ主を信じる者たちは、異なる民族や人種であっても、和解できるのです。パウロは語りました「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。

・キリストは私のために死なれましたが、同時に私たちが争う他者のためにも死なれました。そのことを知る時、他者との和解が可能になります。キリストが来られましたが、多くの人はキリストを受入れませんでした。その結果、人々は果てしない争いを続けています。しかし少数の者たちはキリストを受入れました。神は私たちを和解のための器として選んで下さったのです。アッシジのフランシスは祈りました「主よ、私を平和の器とならせてください・・・主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分の身体をささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。私たちは和解の器としての使命を神から与えられています。私たちは和解の福音を宣べ伝えるために、今日この教会に集められています。クリスマスはそのことを想起する時なのです。

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