2018年11月11日説教(イザヤ61:1-11、悲しみが喜びに変わる)
1.失望し落胆する民への預言者の言葉
・クリスマスを前に、11月はイザヤ書を読んでいきます。イザヤ書は40章から、バビロン捕囚からの解放の預言を記します。捕囚とは国が亡び、異国に強制連行されるという体験でしたが、50年もたつとそれなりに、人々はバビロンの地で生活基盤を築いていました。その人々に第二イザヤと呼ばれる預言者が「解放の時が来たから、共に故国に帰ろう」と呼びかけました(40:1-2)。しかし人々は今さら廃墟のエルサレムに帰りたくないと言い張っていました。その人たちに預言者は、「主が解放して下さったのだ。共にエルサレムに帰ろう、主は荒野をエデンの園に、荒れ地を主の園にされる」と励ましました(51:3)。励まされた人々は帰国の途につきます。紀元前538年のことです。しかし、帰国した民を待っていたのは、厳しい現実でした。イザヤ61章はこのような背景の中で語られています。
・帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。エルサレムなどに帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・この状況は、日本が戦争に敗れ、満州や朝鮮で暮らしていた人々が強制送還された時と共通するものがあります。着の身着のままで現地を追われ、日本に帰りさえすれば何とかなるとして、帰国した人々を待っていたのは、食糧難と迷惑そうな親族や近隣の顔でした。捕囚の民が50年ぶりに帰国すると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。これに対して、そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだと言って立ち上がった預言者が、第三イザヤです。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。
2.悲しみが喜びに
・預言者は人々に語ります。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。主は、困難の中にあるあなたがたを慰めるために私を立てられた、良い知らせを伝えるために私に言葉を与えられた。預言者は続けます「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(61:3前半)。良い知らせ(福音)は、灰(悲しみ)を冠(喜び)に変える。主は悲しんでいるあなた方に、喜びの冠を与えると言っておられる。主はあなた方を通して、この廃墟をエデンの園に変えられる。あなた方こそ「とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す者」なのだ(61:4)と預言者は人々を慰めます。
・預言者は語ります「あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」(61:6)。あなた方はバビロンで50年にわたる苦難を受けた。それはあなた方を主の民、主の祭司とするためだった、あなた方を通して諸国の人々を解放するためだった。あなた方は単に自分の救いを求める者ではなく、神の祝福を隣人に、異邦人に伝える者となるのだ。あなた方が自分のためだけに幸いを求めるから、主は苦難を与えられる。隣人のために幸いを求めてみよ。主はあなた方を豊かに祝福されるだろうと預言者は語ります。
・中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデの血筋を引くゼルバベルです。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、宗主国ペルシャ帝国によって弾圧され、イスラエルはその後も国の独立を果たすことが出来ませんでした。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳され、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主に出会うようになります。イザヤは預言しました「彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める」(61:9)。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として異邦人に仕える者になり、やがてはこのユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリスト=救い主が生まれてこられます。
3.イエスが第三イザヤの口を通して福音を語られた
・バビロン捕囚から500年の時が流れ、イエスが生まれられました。イエスはその宣教の初めに、故郷ナザレでイザヤ61章を読まれ、宣言されました。それが今日の招詞、ルカ4:20-21です。「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。イエスの時代、人々は安息日に会堂に集まり、聖書を読み、説教を聞き、祈りました。最初に信仰告白が読まれ、次に聖書日課に従って先ず律法の書が、次に預言書が読まれ、読んだ人がそれについて短い話をするのが慣例でした。その日の預言書の個所はイザヤ61章であり、イエスは渡されたイザヤ書の巻物を朗読されます。それがイザヤ61:1-2の預言です「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・イエスは、イザヤの預言を、現在の人々の困窮に焦点を当てて語られています。イザヤ61章が語られた時代は、人々が将来に希望を持てない時代でした。イエスの時代も同様でした。当時の人々は食べるのがやっとの貧しい生活を強いられていましたが、その貧しい人々に良い知らせが語られるとイエスは慰められます。税金が払えない人は獄に入れられていましたが、彼らは獄から解放される。病に苦しむ人はその病が癒される。土地を持たず、苦しむ人には土地が与えられるとイエスは言われたのです。人々はメシヤが来て、自分たちの生活が良くなることを待望していました。その人々にイエスは言われました。「私がそのメシヤである。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と(ルカ4:21)。
・イエスは人々に救いを告げられましたが、多くの人々にとって救いとは今現在の苦しみからの解放でした。イエスは霊の命を与えようとされましたが、人々は肉のパンを求めました。イエスは神の国を与えようとされましたが、人々は地上の王国を欲しました。人々の驚嘆と尊敬の中に始まったイエスの宣教が、三年を経ずして、人々のつぶやきと憎悪の中に、十字架の死をもって終るに至ったのはこのためです。イエスの業は挫折したのでしょうか。そうではありません。十字架につけられて死なれたイエスを神は復活させて下さいました。その復活のイエスに出会い、何人かの信じる者たちが起こされていきます。弟子たちを通して、イエスの業は継承されていったのです。そして今イエスの業を継承するために、私たちがこの教会に集められています。
・イエスは言われました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。この言葉はどのようにして実現するのでしょうか。私たちを通してです。私たちは闇の中にいましたが、イエスと出会って光を見出した。光を見出した者が次に行うことは、その光、良い知らせを隣人に伝えていくことです。伝えるとは、言葉と同時に行為で伝えることです。隣人の重荷を私たちが一緒に担う事です。しかし、現実はそう甘くはありません。たとえば夜中に突然一人の人が教会に来られ、行くところが無いので今夜一晩泊めてほしいと言われた時、私たちはどうするでしょうか。その人に泊まっていただくことは可能なのでしょうか。身元のわかっている方であれば可能かもしれませんが、見ず知らずの方を教会にお泊めするのは不可能でしょう。言葉と同時に行為で伝えることは簡単な事ではありません。
・しかしヤコブは私たちを励まします「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。イザヤの時代は今から2500年前、イエスの時代は2000年前です。時代が変わっても、本質的な問題は何も変わっていません。人々は現在の生活に不満を持ち、明日の生活に不安を持っています。その中で唯一変わった事はイエスの言葉に耳を傾け、従う人々が生まれたことです。私たちは神の業を行うように、ここに集められ、神の言葉を聴いています。もう自分のことばかりにかかわりわずらうことをやめ、隣人のために働く者となりたいとの希望を持って、私たちは今ここに集められています。