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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年10月7日説教(詩編1篇1-6節、幸いだ、み言葉を聞く者は)

投稿日:2018年10月7日 更新日:

2018年10月7日説教(詩編1篇1-6節、幸いだ、み言葉を聞く者は)

 

1.詩編全体に対する序詞としての第1篇

 

・私たちは今日から1カ月間、説教で詩編を学んでいきます。詩編150篇の中にはいろいろな詩があります。神を讃美し感謝する詩もあれば、苦難の中で救済を求める詩もあります。今日学びます詩編第一篇は詩編全体を統合する始まりの詩篇です。詩篇1篇の特徴の一つは「幸いなるかな」という祝福で始まっていることです。第二に、この詩では旧約聖書の代表的な考え方、「神を愛する者は報われ、神に逆らう者は滅びる」(1:6)という因果応報が歌われています。

・詩編第一篇は「いかに幸いなことか」という言葉で始まります。詩人は歌います「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら(ない者)」(1:1)。「神に逆らう者」、へブル語レシャイーム、邪悪な者、悪事を働く者の意味です。彼らは驕り高ぶり、寡婦、孤児、寄留者を虐げます。今日でいえばヘイト・スピーチを繰り返す人々です。「罪ある者(ハッタイーム)」とは、的を外す者、神の方を向かない者を指します。偉い人に忖度し、公文書さえも書き換える人々です。「傲慢な者(レツイーム)」とは嘲る者、高慢な者を言います。悪を犯しても「知らぬ、存ぜぬ」で悔い改めない人々です。詩人は「悪を働かず、神にそむくことがなく、高慢でない者」義人(正しい人)は幸いだと語ります。それを言い換えたのが2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1:2)です。主の教えとはトーラー(戒め、律法)ですが、それを毎日唱和し、守る人は幸いだと言われています。

・詩人は続けます「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(1:3)。主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福されています。詩編1篇の作者は詩編全体の編集者であり、彼は詩編の中に「悪しき者が栄え、正しい者が虐げられる」ことを訴えた詩が数多くあることを知っています。次の二編を見ると「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と彼らは言う(2:1-3)。その現実を知った上でなお、「神を愛する人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と詩人は断定します。「正しい者が虐げられ、悪が栄える」現実があっても、「悪の企てに加担しない者こそ幸い」だと歌い上げているのです。

・詩人は律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと続けます「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」(1:5)。穀物は収穫が終わると実をたたいて実と殻に分離し、空中に放り投げられます。その時、中身のないもみ殻は風に飛ばされ、重さを持つ実だけが再び容器の中に戻されます。悪しき者は、たとえ一時的に隆盛を誇るように見えても、内容のない空疎な存在として、あらゆる方向に吹き飛ばされる。それ故、悪人は「神の裁きに堪え得ない」(1:5)と詩人は歌います。悪しき者、神に逆らう者は終末の審判で滅ぼされる。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(1:6)。邪悪な者の道が栄え、正しい者が虐げられるという現実があったとしても、それは一時的であり、「世界を支配される神はその悪を糺される、悪がいつまでも栄えることはない」とその信仰を歌います。

 

2.詩篇には救済の力はない

 

・詩編第一篇は義人を水辺の樹木に、罪人を風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえて、両者の人生が対照的であることを印象付けます。第一篇の中心的な思想は因果応報です。因果応報とは行為の善悪と人生の幸不幸を関連付ける考え方です。「善は報われ、悪は滅びる」、「人は自分の蒔いたものを刈り取る」、「頑張った人は報われる」、そうであって欲しいという願いを込めて、現代社会もまた因果応報を考え方の基礎にしています。旧約学者の月本昭男氏は、詩篇釈義の中で述べます「何が悪で何が善かは相対的であり、立場を変えれば、善が悪に、悪が善になりえます。また何が本当の幸福か、誰も知りません。このような中で、善と悪、幸と不幸を二分化して固定する応報的世界観の下では、応報原理があらゆる人生の出来事に当てはめられ、悪人が悪ゆえに栄え、善人が善ゆえに滅びる現実社会の不条理は無視されてしまいます。その結果、ヨブのように災難に見舞われた者は神に罰された者として断罪されることになります。因果応報論は、時には因果関連を世代間に広げ、あるいは死後の世界へと延長して、人生の不条理を安易に合理化し、社会のゆがみや矛盾を正当化するようになります」(詩篇の信仰と思想より)。

・詩人は、義人の生涯は邪悪な者の生涯よりも幸福だと見ているわけではありません。そうではない現実があることを見つめながら、それでも悪に加担しない、正義を求めていく生き方こそ、幸いだと歌うのです。しかし、この詩は限界を持っています。詩人は人を義人と罪人に分け、対立させていますが、どこに完全な人、義人がいるでしょうか。「善を行う者はいない。一人もいない」(詩編14:3)という叫びは真実です。人は心の中に重い闇(原罪)を抱えています。パウロは叫びます「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:23-24)。詩編1篇は偉大な詩ですが、そこにあるのは因果応報であり、基本的な考え方は利害得失です。利害得失はこの世の生き方ですが、私たちを滅びから救う力はありません。

 

3.詩篇1編を祝福に変えられるイエス

 

・今日の招詞にマタイ5:3‐5を選びました。次のような言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。山上の祝福の冒頭の言葉です。詩編1篇は「幸いだ」と言う言葉で始まります。「幸いだ」(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では「マカリオス」と訳されました。この「マカリオス」が、「山上の祝福」の冒頭の言葉です。原文では「幸いだ、貧しい者たち。神の国は彼等のものだ」とあります。他方、詩篇1:1は「幸いだ、神に逆らう者の計らいに従って歩まない者は」と語ります。両者の構成は同じです。イエスはガリラヤ湖のほとりで、詩編1篇を想起しながら、山上の祝福を述べられているのです。そして目の前にいる人々に「あなた方は貧しいゆえに幸いだ」と言われています。

・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスの下に集まってきた人々も幸福を求めていました。ある者は、長い間病気で苦しみ、別の人は食べるものもない貧乏の中にいます。精神的な悩みを持つ人もいた。彼らは現在の情況さえ変われば、病気や貧困さえ取り除かれれば、幸福になれると思っていました。「でも本当にそうか」とイエスは問われます。1997年夏に亡くなったダイアナ妃の人生について、ある人は語ります「ダイアナは人に愛されたい、幸せになりたいと願い、それを追い続け、それが得られないままに世を去っていった」。幸福とは「求めたものを獲得する」ことではない。そのような喜びは一瞬に終わり、また新しい幸福の追求に人は追われていきます。イエスは言われます「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いだ。あなた方は悲しみを持つ、しかし悲しんでいる者が幸いなのだ」。聞いた人々は理解できません。貧しいこと、病気であることが幸いとは思えない。イエスはなぜ「貧しい人々、悲しむ人々」を祝福されたのでしょうか。

・イエスは貧しさや病気は耐え難い現実を十分に承知したうえで、苦しむ人々に「私の所に来なさい」と呼びかけ、その不幸を幸いに変えようと約束されます。彼はナザレでの宣教の始めに宣言されます「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」(ルカ4:18)。イエスは自らの十字架死を通して、不幸を幸いにする道を開かれました。ペテロは告白します「(この方は)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によってあなたがたはいやされました」(第一ペテロ2:24)。私たちの罪を担うことを通して、私たちを死の刺から救い出して下さったとペテロは告白します。

・水野源三さんは子どもの時に熱病にかかって全身麻痺になり、生涯寝たきりの生活を送りました。人間的に見れば、悲惨な人生です。彼の体で動くものは唯一その眼球だけでした。彼は自由になる目の瞬きで意思を母親に伝え、母がそれを文字にする形で、詩を書きました。彼は歌います「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。「苦しんだからこそ神様に出会えた、だから私は幸いだ」といえる世界がここにあります。

・戦時下の日本、国家による宗教統制が激しさを増し、キリスト教が敵性宗教として弾圧されていた1941年の受洗者は5929 名でした。その後、日本が平和になり、信教の自由が許された1998 年の受洗者は1900名でした。迫害の時には6千名が受洗し、平和になると受洗者は1/3に減った。このことが示しますことは、苦難の時、悲しみの時にこそ、人は神に出会うという事実です。私たちに本当に必要なものは、病のいやしではなく、貧乏からの救済でもなく、苦難からの救いでもない。心が貧しくされて、神の言葉が聞こえるようになることです。その時、貧乏も、病気も、苦難もまた、祝福に変わって行くのです。「いかに幸いか、神の子を知る者は」、まさに私たちにキリストが与えられていることこそ、幸いなのです。

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