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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年10月21日説教(詩編46:1-12、主が共におられる故に揺るがない)

投稿日:2018年10月21日 更新日:

2018年10月21日説教(詩編46:1-12、主が共におられる故に揺るがない)

 

  1. 神の都をたたえる歌

 

・詩編46編は「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と歌い、多くの讃美歌の題材にもなってきました。宗教改革者マルチン・ルターは、この詩編をもとに新生讃美歌538番「神はわがやぐら」を書いたといわれています。ルターは歌います「神はわがやぐら、わが強き盾、苦しめる時の、近き助けぞ」と。詩編46編の主題は万軍の主に対する信頼です。8節、12節に「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔」と繰り返えされています。この世にいる限り私たちには苦難がありますが、神は私たちが受ける苦難をご存知であり、必ずそこにいて助けてくださると詩編46編は歌います。

・最初に詩人は、天地を支配される主をほめたたえます。主ご自身が「私たちの砦、避けどころ」であるがゆえに、大地や山々が揺れ動き、海が荒れ狂おうとも、私たちは恐れないと詩人は歌います。この避け所、ヘブル語マフセーはギリシャ語聖書ではエルピス(希望)と訳されています。「神こそ私たちの希望」と歌われているのです。「神は私たちの希望、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない」(46:2-3a)。「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(46:3b-4)。「山々が揺らぎ」、「海の水が騒ぎ」、「山々が震える」、いずれも創造以前の原始の混沌(カオス)を意味する言葉です。主は原始の混沌を秩序(コスモス)に変えて、天地を創造されたと聖書は語ります。だから「山々が揺らぎ、海の水が騒ぎ、山々が震える」とも、「私たちは決して恐れない」と詩人は語ります。

・2011年3月11日に東日本に大きな地震と津波が起こり、2万人近い方が亡くなり、多くの人が問いました。「神が愛であるならば、何故このような地震や津波を起こし、何万人もの命を奪われたのか」。しかし冷静に振り返ると、東日本を襲った地震と津波は、北米大陸プレートが過去に相当の回数行って来た自然界のリズムによるものです。自然災害は身に引き受けるしかありません。しかし自然災害でありますから、「山々が揺らぎ、海の水が騒ぎ、山々が震える」とも、私たちは決して恐れる必要がありません。対処法を神が示してくださるからです。

・天地を支配される方は、また歴史をも支配される方です。国々がどのように武力を誇ろうとも、主の前においては何の意味もなく、主の御声で地の力は溶けさり、主は住まいである聖所、神の都シオンを守って下さると詩人は歌います。「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る」(46:5-7)。現実のイスラエルは東のメソポタミヤ、西のエジプトの二大帝国の狭間の中で、常に独立が脅かされ、繰り返し占領され、支配されてきました。その中で詩人は「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」との信仰を表明します。詩人は歌います「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる」(46:9-10)。

・詩人は、「私たちはこの主に依り頼んで国の平和を守る」と宣言します。「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる」(46:11)。「私たちは主に依り頼んで国の平和を守る」、と詩編は歌いますが、私たちの国は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と歌います(日本国憲法前文)。詩編と憲法前文の違いは、詩編は「主に依り頼んで国の平和を守る」と語るのに対し、日本国憲法は「諸国民の公正と信義に信頼して国の平和を守る」とします。でも本当に「諸国民の公正と信義に信頼」できるのか、近隣のロシアや中国、北朝鮮をそんなに信頼できるのか。信頼できないからこそ、日本は自衛隊を持ち、アメリカと軍事同盟を結んで、アメリカの核の傘の下で、「国の平和を守ろう」としています。

 

2.神の都とは何か

 

・「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」の信仰の背景にあるのは、「神の都シオンは永遠である」というシオン神学があります。イザヤは「万軍の主の御座であるエルサレムは滅びない」と宣言し、国際情勢の変動に動揺する為政者に対して、「恐れるな、平静であれ」と説き、「大国に頼るな」と戒めました。アッシリアが攻めて来た時、イザヤの預言通り、エルサレムを包囲した敵軍が撤退し、エルサレムは守られたという歴史があります。「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」(イザヤ37:36-37)。ペストが発生してアッシリア軍は大打撃を受け、退いたと言われています。ここからシオン神学が生まれました。エルサレムは神の都だから滅ぼされることはないと。

・それに対して後代の預言者エレミヤは、罪を犯した民を主は罰せられ、神はシオンでさえも捨てられると説きます。エレミヤの言葉を「聖なる都」に対する冒涜とした祭司たちは裁判でエレミヤの死刑を求め、シオンの不可侵性を守ろうとしましたが、エレミヤの預言通り、エルサレムは紀元前587年にバビロン軍に占領され、焼かれました。シオンは不可侵ではなかったのです。

・エルサレムが聖なる存在ではなく、神が聖なる方だと知った人々は、「争いを終わらせる主」を待望するようになります。ミカは歌います「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と・・・主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(ミカ4:1-3)。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、この言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれている言葉として有名です。20世紀は戦争の世紀でした。第二次世界大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てるという決意で土台石にこの言葉を刻み込んだのです。

 

3.新しい天と新しい地

 

・今日の招詞にヨハネ黙示録21:1-2を選びました。次のような言葉です「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。この世は悪の世であり、支配者は権力を振るい、逆らう者は殺されていく不条理があります。しかしいつまでも悪の支配は続かない。「主は地の果てまでも、戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折、盾を焼き払われる」方だとの信仰は新約にも継承されました。

・ヨハネ黙示録は、紀元95年前後、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に書かれました。ドミティアヌスは帝国全土に自分の像を祀らせ、これを神として拝むことを強制し、従わない者は迫害しました。多くのキリスト教徒は、「皇帝は人であり、神として拝むことは出来ない」として拒否し、捕らえられ、殺されて行きました。著者ヨハネも不服従の罪でパトモス島に流されています。そのパトモス島でヨハネは幻を見ました。ヨハネは証言します「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)。「最初の天と最初の地」とは、古い世界、この現実世界のことです。ローマ皇帝が力で世界を支配し、従わない者を殺し、迫害の中で教会は消え去ろうとしている世界です。しかし、神が創り給うた世界はいつまでも悪の支配するところではない、古い世界は「去って行く」、そこから獣が出てきた混沌の象徴である海も消えていくとヨハネは知らされました。ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来た」(21:2)のを見ます。

・エルサレムは、エル(神)・サレム(平安)と呼ばれました。神の平安の都が、現実の歴史の中では、争いや流血の場となっていました。エルサレムはアッシリア、バビロニヤ、ギリシャ、ローマといった諸帝国に次々に占領され、破壊の歴史を経験してきました。ヨハネ時代のエルサレムも、ユダヤ戦争の結果、ローマに占領され、神殿も破壊されています。その流血の町エルサレムが清められ、天から新しいエルサレムが降りて来る様をヨハネは見ています。そのような日が来るとの希望でヨハネ黙示録は閉じられています。ヨハネの教会を迫害した皇帝ドミティアヌスは手紙が書かれた1年後の紀元96年に暗殺され、迫害は終りました。その意味でヨハネの預言は成就したのです。しかしその後も迫害は繰り返し起こりました。人々はヨハネ黙示録の記すキリスト再臨を待望しましたが、キリストは来ませんでした。そして終末の時も始まらず、2000年の時が流れました。この終末とキリストの再臨をどのように考えるべきかが、現代の教会に与えられた課題です。

・「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」という記録の中で、著者アーネスト・ゴードンはイギリス軍の将校として、日本軍の捕虜となり、鉄道工事に従事し、「死の谷」の収容所生活を送りました。マラリヤ、ジフテリヤ、熱帯性潰瘍等の病気に次々に罹り、「死の家」に運び入れられ、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をします。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、無神論者だった彼が聖書を読み始めます。そこに彼が見出したのは「生きて働いておられる神」でした。彼は書きます「神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた」(176P)。詩編46編が歌うように、「万軍の主は私たちと共にいます。神は私たちの砦の塔」であることを彼は実感したのです。

・病をいやされたゴードンは仲間たちと共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、祈り、励まし、死を看取ります。やがて無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が開かれようになり、賛美の歌声が聞こえてくるようになります。彼はその時、思います「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(202P)。彼もヨハネと同じ「新しいエルサレム」の幻を見たのです。彼は最後に書きます「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。神は苦痛を分け持って下さった。神は私たちを外へ導くために死の家の中に入ってこられた」(383P)。「万軍の主は私たちと共にいます。神は私たちの砦の塔」なのです。

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