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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2018年11月4日召天者記念礼拝説教(詩篇90:1-15、死を忘れるな、死を恐れるな)

投稿日:2018年11月4日 更新日:

2018年11月4日召天者記念礼拝説教(詩篇90:1-15、死を忘れるな、死を恐れるな)

 

1.死を忘れるな

 

・今日、私たちは召天者記念礼拝を行います。私たちの教会では11月第一主日に召天者を覚える礼拝を行いますが、これは教会の暦で11月第一日曜日が「聖徒の日(死者の日)」、亡くなった信徒たちのために祈る日にしていることを覚えてのことです。死者の日は、元々はケルトのお盆(ハローウィン、秋の終わり・冬の始まりの収穫祭)に死者の霊が家族を訪ねてくる風習を教会が取り入れたものと言われています。私たちの教会ではこの日に召された方々のお名前をお呼びし、死の意味を共に考えていきます。今日は詩篇90編を通して死と生の問題について御言葉を聴いていきます。

・詩篇90編がまず私たちに語ることは「死を忘れるな」と言うことです。5-6節は語ります「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れます。人の一生もそのようなものだと詩人は歌います。人は誕生し、少年期、青年期を経て壮年期に至ります。生きているうちに何事かを為したいと思い、学び・働き・結婚し、家族を形成します。幸運に恵まれ、一代で財を成す人もいれば、多くの家族に恵まれる人もいます。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来ます。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。

・詩編が歌われた3000年前の平均寿命は30年、40年だったでしょう。その当時、70年、80年生きることの出来る人はまれであった。ただその幸運を生きた長生きの人でも、振り返ってみれば、一瞬の人生であると詩人は歌います。現在の私たちは当時の人がうらやむほどの長寿を生きることが出来ます。しかしいくら長寿になっても少しも幸せとは思えない。神を見失った、神が共におられないからです。詩人は歌います「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(90:14)。

・私たちは生まれ、死んでいきます。人生とは誕生と死の間にあるひと時の時です。多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしません。だから近親者の死に直面する時、私たちは「死んではならないはずのものが死んだ」という矛盾の中で苦しみます。聖書は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求めます。それが12節の言葉です「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。詩人は、生涯の日を正しく数える、死ななければならない存在であることを受け入れることが出来ますようにと神に求めています。

・私たちは自分が死ぬ存在である、人生が死によって限界付けられていることを認めようとしない存在です。パスカルは語りました「人間は死と悲惨を癒やすことが出来ないので、自分を幸福にするためにそれらを考えないようにした」。別な人は語ります「私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活とよんでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではないではないか」。私たちはいつも死を他人事ととらえます。死とは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとしない。死について考えないとは現在の生についても考えないことです。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。

 

2.死を考えまいとする私たち

 

・私たちは死を考えまい、あるいは忘れようとします。その試みの一つが「魂の不死、あるいは霊魂の不滅」という信仰です。人は死ぬがそれは肉体が滅びるのであって霊は滅びない、霊は肉体の死を超えて生きる。古代以来多くの人々がそう信じてきました。プラトン、アリストテレスから始まり、カントに至るまでそうです。教会に来ているクリスチャンの大半も実は信じているのは復活ではなく、霊魂の不死ではないかと思えます。母親は死んだ夫について子どもたちに教えます「お父さんは今天からお前を見守ってくれている」。私たちも墓参りに行き、死者に呼びかけます「来ました」。心情的には理解できますが、この信仰は聖書の信仰ではありません。

・二番目は現在の生の肯定を通して、死から逃れようとする考え方です。私はまだ死んでいない、今しばらくは死なないだろう、生きているうちに充実した生を楽しみたいと世の多くの人は考えます。パウロはそのような生き方は空しいと語ります「「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(第一コリント15:32)。このような生き方を私たちは「良し」とするのか。しかし、このような生き方、死を考えまいとするいき方はいつか破綻します。死は必ず訪れるからです。

・聖書は、人間の真の生き方は、死を忘れないこと、自分の限界を知ることだと述べます。有限性を知ることは自分が被造物に過ぎない、死に対する決定権が自分にはないことを認めることです。そこから創造者である神を思う心が生まれます。死をおそれずに死と向き合う唯一の道は、命の創造者である神を覚えること、だから詩人は歌います「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(90:1-2)。

・私たちは神に創造されました。それにもかかわらず私たちは死にます。それは何故か、罪の咎として死が与えられたと詩人は語ります。7-9節「あなたの怒りに私たちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたは私たちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。私たちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。罪の結果として、神の怒りとして、死があるとすれば、死から解放される道は神による罪の赦ししかありません。だから詩人は祈ります「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(90:13)。詩人は神が正義の神である故に罪びとに死が与えられることを知ります。同時に神は憐れみの神であり、人が求める時、恵んでくださる方であることを信じます。故に願います「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」(90:14-15)。

 

3.死を恐れるな

 

・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。ラザロが死んで4日目にイエスはベタニヤ村に来られ、兄弟の死を悲しむマルタに言われました「あなたの兄弟は復活する」(ヨハネ1:23)。マルタは答えます「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。マルタが信じているのは霊魂の不滅であり、今ここでのラザロのよみがえりではありません。そのマルタにイエスは言われます「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。神は死者を生き返らせることが出来る。死んだラザロを今よみがえらせることが出来る。その神の力、神の憐れみを信じるか。マルタは信じることが出来ません。イエスはマルタのためにラザロを墓から呼び出され、ラザロは再び生きるものとなりました。神の憐れみがイエスを通して示されました。

・死んだ後どうなるのか、誰にもわかりません。神を信じる者にもわかりません。ただわかることはイエスが死んで復活されたこと、イエスが今も生きておられることの二点です。イエスによって死が乗り越えられた故に、私たちはイエスが復活されたように、信仰者に復活の約束が与えられていることに希望を置きます。イエスの復活を信じる時、信仰者は今ここで永遠の命の中に入ります。永遠の命とは、死んで天国に行くことではなく、今、死から解放されることです。神を信じる者は、水のバプテスマを受けます。バプテスマは水に入り、水から引き出される行為です。水に入りイエスと共に復活の命に生きる。パウロの語る通り、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント15:54-55)。だから私たちは死を悼みません。死とは終わりではなく、新しい命の出発だからです。

・信仰を持たない人々にとって、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事です。パウロ時代の手紙は書きます「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。これは現代においても同じです。多くの日本人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(第一テサロニケ4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活するとパウロは語ります。世の若者たちは死ぬことを考えないし、老人たちは自分たちの時代はもう終わったとして人生を諦めます。それに対して私たちは、若いうちから死を覚えて現在を誠実に生き、歳をとればこの世での残された日々を大切に生き、死ねば天に召される生き方に召されています。「死を忘れるな」、そして「死を恐れるな」。これが聖書の語るメッセージです。

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