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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年7月2日説教(創世記1:1-31、天地の創造)

投稿日:2017年7月2日 更新日:

2017年7月2日説教(創世記1:1-31、天地の創造)

 

1.神は天地を創造された

 

・今日から3カ月にわたって創世記を読んでいきます。今日は創世記1章ですが、そこには「世界は神によって創造された」と記されています。「初めに、神は天地を創造された」(1:1)。この世界は偶然に存在するのではなく、神の創造によって存在するに至ったことが宣言されています。そして創世記1章2-3節は創造前の世界がどのようであったかを記しています「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。神が天地を創造される前には、「地は混沌であって闇が全地を覆っていた」とあります。世界は闇の中にあって、混沌としていた。そこに「光あれ」(1:3)という神の言葉が響くと光が生まれ、混沌(カオス)が秩序あるもの(コスモス)に変わっていったと創世記著者は語ります。

・創世記については多くの人が、「この世界はどのようにして創造されたか」を記す書だと考えています。第一日目に「光」が創造され、二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれ、三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られ、最後の日、六日目に動物と人が創造されます。ある人々はこれを見て、世界は創世記に記述する通りに創造され、従って自然科学の説明する宇宙の生成や人間の進化論は間違いだと主張していますが、そこには大きな誤解があります。創世記は「この世界がどのようにして創造されたかを宇宙論的に説明する」ものではなく、あくまでも「この世界が創造されたことにどのような意味があるのか、私という人間が存在する根拠は何か」を追求した書であるからです。

・そのことは創世記を構成する文書がどのようにしてできたかを文献学的に調査していけばわかります。例えば創世記は、創造前の世界は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記しますが、この「混沌」と言う言葉、ヘブル語「トーフー・ワ・ボーフー」という言葉は聖書に三箇所しかない言葉です。それがあるのは創世記を除けばイザヤ34:11とエレミヤ4:23です。いずれも紀元前5世紀のバビロン捕囚時の預言です。旧約研究によれば、創世記1章は紀元前5世紀に書かれた祭司資料からなるといわれています。イスラエルは当時の帝国バビロニアによって数度にわたって征服され,首都エルサレムは壊滅し、王族を始め主要な民は、捕虜として敵地バビロンに連れて来られました。この捕囚地での新年祭にバビロニアの創造神話が演じられ、イスラエル人は屈辱の中でそれを見ました。そのバビロニア神話が、創世記のモデルとなったとされています。

・捕囚地でイスラエルの民は、「何故神は、選ばれた民である私たちイスラエルを滅ぼされ、敵地バビロンに流されたのか」を問い続けました。捕囚期の預言者エレミヤは歌いました「私は見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」(エレミヤ4:23)。全地は荒れ果て、天地は創造以前のカオスに戻ってしまったと預言者は嘆いているのです。また第二イザヤと呼ばれた預言者は叫びました「主は天地に荒廃をきたらせる計り縄を張られた」(イザヤ34:11)。この「混沌」や「荒廃」が「トーフー・ワ・ボーフー」という言葉です。「自分たちは滅ぼされた、神に捨てられた」、絶望の闇がイスラエル民族を覆っていた。しかし、神が「光あれ」といわれると光が生じ、闇が裂かれた。そこにイスラエルの民は救いを見ました。現実の世界がどのように闇に覆われ、絶望的に見えようと、神はそこに光を造り、闇を克服して下さる方だとの信仰を持ったのです。「主よ、あなたは私たちに再び光を見せて下さるのですか。」、そのような祈りが創世記1章冒頭の言葉の中に込められています。
・創造の業は続きます。二日目には大空=宇宙が造られ、天と地が分かたれました。三日目には地球が造られ、海と陸が分けられ、生物が生きる環境が整えられていきます。そして植物が造られ、魚と鳥が造られました。そして最後の日、六日目に動物と人が創造されます。全ての創造の業が終えられた時、「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1:31)。創造の業が「極めて良かった」という神の肯定の中で終えられています。この「良かった」、「良しとされた」という言葉が、創世記1章の中に7回も出てきます。

・何故、繰り返し「神は良しとされた」と言う言葉が用いられているのでしょうか。それは現在が「良しとは言えない」状況の中で、イスラエル民族が創造の「良し」という言葉を求めていたからです。私たちは良きものとして神に創造された、しかし罪を犯したために、今は「良し」とは言えない状況の中にある。神はこのような私たちを赦し、再び「良し」という中に戻して下さる、戻して下さいという信仰の告白がここにあるのです。「地は形なく空しかった」がそこに「神の霊が水の面を覆っていた」、神はバビロンの地にもおられた。そのことの中に捕囚のイスラエルの民は希望を見出しているのです。

 

2.神は御自分にかたどって人を創造された

 

・創世記は1章26節から、人の創造を記します。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)。ここに「創造された(バーラー)」という言葉が3回も用いられています。人こそが神の創造の目的だったのです。そして神は人を祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1:28)。すべての人々は神の祝福の中に生まれてきます。罪を犯したイスラエルもまた神の祝福の中にあり、親が望まない形で生まれてきた人もまた、神の祝福の中にあります。

・私たちがどのような状況にあっても、神は私たちの存在を肯定しておられる、創世記はそう述べます。すべての人は存在することにより、肯定されています。男も女も、大人も子供も、健常者も障害者もまた、神の肯定の中にあるのです。創世記は私たちに、例え現在が希望のない闇のように見えても、その闇は神の「光あれ」と言う言葉で分断されるということを伝えます。イスラエルの信仰は、神は人を「良し」として創造され、「生めよ、増えよ」と祝福された事を教えます。だから、私たちも希望を持つことが出来ます。

・神はご自分の形に私たちを創造されました。神の形とは人格を持つ存在として人が創造されたことを意味します。神が語りかけられ、それに応えうる存在として造られました。神と私たちの間には、「私とあなた」という人格関係が成立しているのです。植物や動物は「あなた」ではなく、「それ」、単なるものに過ぎません。その中で人間だけが創造主と「あなたの関係」に入ることが許されています。イスラエル人は捕囚の地で、人間以下の「それ」という奴隷の状態にありました。敗残者として卑しめられ、もののように扱われていた。その中で、神は自分たちを「あなた」と呼んで下さる。そのことの中に、現実の「それ」という関係が、やがて「あなた」という関係に変えられる望みを、イスラエルは見たのです。

・創世記1章は捕囚の苦しみの中で生まれてきたものです。私たちが今生きているこの世界、この現実、そこには「混沌」があり、「闇」があり、救いようのない「絶望」があっても、私たちを創造された神は、そのような状態に私たちがいることを望んでおられないし、私たちが希望をもって立ち上がる日を待っておられる、そのような信仰のもとに書かれた、「励ましと慰めの書」なのです。

 

3.励ましと慰めの書として創世記を読む

 

・今日の招詞に創世記2:1-3を選びました。次のような言葉です「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。創世記1章は2章4節前半まで続いています。そこでは神は六日間で創造の仕事をなされ、七日目に休まれたとあります。七日目に休む、ここに安息日の起源があります。神が六日働いて七日目は休まれた故に、私たちも月曜日から土曜日まで六日間働き、七日目の安息日は聖なる日として礼拝に参加します。

・創世記はバビロン捕囚を経験したイスラエルの民が、国の滅亡、捕囚という裁きを通して自分たちの罪を見つめ、悔い改めを文書化した資料です。バビロン捕囚とは、紀元前587年バビロニア帝国のネブカドネザル王がエルサレムを滅ぼし、諸都市も征服して、生き残った人々の多くをバビロンに強制移住させた事件です。その数は数万にも及んだとされています。捕囚期間は50年にも及び、多くの犠牲者が出ました。イスラエルにとっては忘れることのできない事件です。(このバビロン捕囚と類似の出来事が、ソ連による日本軍捕虜のシベリア抑留です。武装解除され投降した日本軍捕虜ら70万人が、ソ連によってシベリアなどに移送隔離され、長期にわたる強制労働により30万人が亡くなりました)。

・異国の地に強制連行された民族の多くは滅びましたが、その中でイスラエルは生き残り、今日までユダヤ人として彼らの信仰を保持しています。それが可能だったのは、彼らが神との契約のしるしとして身に帯びた割礼と、この安息日の遵守だったといわれています。七日目に礼拝所(シナゴーク)に集められることを通して、彼らは民族として生き残りました。イスラエルを征服したバビロニア帝国は滅び、その後のペルシャもギリシャもローマも滅びました。しかしイスラエルは生き残っています。安息日礼拝が彼らを生存させたのです。その安息日の根拠を彼らは創世記2:3の天地創造に求めました。安息日は英語では「Holly Day」です。しかし現代人はこれを単なる休日(Holiday)にしてしまった。私たちはこの日を再び「Holly Day」にしなければいけない。

・人間は神の赦しの中にあります。捕囚の民は自分たちの罪の赦しを求めて、創世記を記述しました。その創造の初めでは、人間は穀物と果物だけを食べて生きるように創造されたとあります。「神は言われた『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』。そのようになった」(1:29-30)。動物の命を奪って食べる肉食が許されたのは、ノアの洪水後のことであったと創世記は記します「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」(9:3)。

・ノアの洪水という人類の裁きの後で神は言われます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。私は、このたびしたように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。罪ある存在を罪あるままで受け入れられた神の許しの中で自分たちは生きている。だから神は私たちに肉食という罪を許されたという捕囚の民の理解がここにあります。私たちは週に一度聖別された安息日に神の前に出て、罪あるままに生きることを許されていることを感謝する。それが私たちの行う礼拝です。

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