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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年7月9日説教(創世記2:1-3,安息日を守る)

投稿日:2017年7月9日 更新日:

2017年7月9日説教(創世記2:1-3,安息日を守る)

 

1.創造における安息日

 

・創世記は1章で神の天地創造の記事を描き、2章では天地創造が終わった時、神は休まれたと記します「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2:1-3)。神は六日間で天地創造の仕事を為され、七日目に休まれた、そして七日目を聖別された。ここに安息日の起源があります。神が六日働いて七日目は休まれた故に、私たちも月曜日から土曜日まで六日間働き、七日目は聖なる日、安息の日として礼拝に参加します。

・創世記はバビロン捕囚を経験したイスラエルの民が、国の滅亡、異邦の地での捕囚という裁きを通して、自分たちの罪を見つめ、悔い改めを文書化した資料です。紀元前587年バビロニア帝国はユダヤを征服し、生き残った人々をバビロンに強制移住させ、捕囚は50年に及びました。イスラエルにとっては忘れることのできない事件です。異国の地に強制連行された民族の多くは滅びましたが、その中でイスラエルは生き残り、今日までユダヤ人として彼らの信仰を保持しています。それが可能だったのは、彼らの安息日遵守だったといわれています。七日目に礼拝所に集められることを通して、彼らは民族として生き残りました。

・その安息日の根拠を彼らは創世記2:3の天地創造に求めました。人間は神の赦しの中にあります。捕囚の民は自分たちの罪の赦しを求めて、創世記を記述しました。そして、罪ある存在を罪あるままで受け入れられた神の赦しの中で自分たちは生きている。だから七日目ごとに主の前に集い、主に感謝をささげました。安息日礼拝が彼らを生存させたのです。私たちもまた、週に一度聖別された安息日に神の前に出て、罪あるままに生きることを赦されていることを感謝する。それが私たちの行う礼拝です。

 

2.安息日の遵守

 

・この安息日規定はやがて十戒の第四戒となります。出エジププト記20章は記します。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト記20:8-10)。何故ならば「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(同20:11)。万能の神は安息する必要はありません。この安息日規定は人間のために設けられました。

・十戒規定は二つのことを示します。一つは「七日目ごとに休め」という神の配慮がここに示されていることです。人間は休まなければ体が壊れる。最近、過労死問題がクローズアップされていますが、労働医学では1カ月の残業時間が45時間(一日2時間)を超えると健康に影響が生じ、100時間(一日4時間)を超えると、心疾患や脳血管疾患の発生リスクが高まるとします。「休んで体力を回復せよ」との祝福がここに語られています。もう一つは「七日目を聖なる日として守れ」という命令です。人は神により生かされている、その感謝を七日目ごとに捧げることによって精神の健康を維持せよとの配慮です。安息日は人が心身ともに健康に過ごせるように定められたのです。

・しかし人間は恵みとして与えられた安息日をやがて、「守らなければならない日」にしてしまいます。安息日が「休むことのできる日」から「守らなければいけない日」に代わり、イエスの時代、指導者たちは安息日には全ての仕事をしてはいけないと語りました。火をおこすことも薪を集めることも食事を用意することさえも禁じられるようになります。ここに至って、安息日が安息ではなく、人を束縛するものになっていきました。

・マタイ12章にイエスが安息日に片手の萎えた人を癒される記事があります「片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた」(マタイ12:9-10)。彼らに対してイエスは言われます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ12:11-12)。安息日は祝福であり、恵みであるのに、あなたたちはそれを制度化して、人間を縛るものにしてしまった。イエスが繰り返し語られたことは祝福としての安息日でしたが、指導者たちは理解しません。イエスは片手の萎えた人を癒されます。すると「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(マタイ12:13-14)。イエスは命を懸けて安息日を本来の祝福の日に戻してくださったのです。

 

3.安息日とはなにか

 

・今日の証詞にマルコ2:27を選びました。次のような言葉です。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2:27)。イエスと弟子たちが安息日に麦畑を通って行った時、弟子たちが麦の穂を摘み、もんで食べ始めました(2:23)。律法では麦の穂を摘んで食べることは許されていましたが、「安息日にはいけない、麦の穂を摘むことは刈入れに当たるから禁止されている」と宗教指導者たちは教えていました。彼らは、イエスの弟子たちが安息日に禁じられていた仕事をしたと非難したのです。

・それに対してイエスは言われます「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だった時に何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であった時、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」(2:25-26)。これはダビデがサウル王に命を狙われ、逃亡生活をしていた時、祭司アビメレクに保護を求め、祭司だけに許された聖別されたパンを食べたことを引き合いにして、生存にかかわる緊急時には律法に違反する行為も許されるとイエスは反論されたのです。そしてイエスは言われます「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(2:27)。

・イエス亡き後、初代教会は安息日をユダヤ教の土曜日から、日曜日に変更して、この日を「主の日」として守ります。金曜日に死なれたキリストが日曜日に復活されたからです。こうして安息日は第七の日から第一の日に変えられ、喜びの日となりました。キリスト教がローマ帝国の公認宗教となりますと、日曜日は「祝日」に制定され(321年)、その日は、奴隷も含めて、だれもが仕事を休むことが出来る日になります。ところが時代を経るに従い、次第に、日曜日には礼拝に出ることが強制され、礼拝を休む者は処罰され、劇場や遊技場も日曜日の営業が禁止されて行きます。中世において、日曜日は「守らなければいけない日」となり、この伝統は宗教改革を経ても変わらず、禁欲的な安息日重視が最近まで続いていました。しかし戦後になりますと、世俗化、宗教離れの流れの中で、人々は日曜日に買い物をし、運動を楽しむようになります。日曜日が、「聖なる日」(Holly  Day)から「休日」(holiday)に意味を変え、再度第七の日、週末になって行きます。

・イエスは安息日に多くの癒しを行われました。「あえて安息日に癒しを行われた」と思えるほどです。イエスはその行為を通して、「安息日の意味をもう一度考え直せ」、「安息日を再び祝福の日に戻せ」と言われているのです。イエスは安息日律法を犯すことが死の危険を伴うことを承知の上で、安息日に人を癒されました。イエスは自分の身を削って安息日の自由を主張された。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、この言葉はイエスが命をかけて戦い取られた福音です。

・イエスの弟子として、復活の生命を生きる私たちは、安息日をどのように考えるべきか。私たちは日曜日(主の日)に教会に来て神の前に静まります。それが私たちの本来の安息です。しかし、教会に来ることの出来ない時もあります。子供の運動会がある時は礼拝を休んでいいのか、夫が病気で寝込んでいる時はどうするのか、会社に日曜出勤しなければいけない時はどうするのか、多くのクリスチャンが悩まされる問題です。私たちはイエスが言われた言葉「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」に従って判断します。私たちは神の前に安息するために教会に集まります。仮に、他の用事を神様からいただいたのであれば、それに従って安息日をすごせば良いのです。

・様々や用事や束縛がありますが、それが本当の用事、本当の安息なのかを考える必要があります。「子どもの運動会が日曜日にある」、子どもと共に過ごすことが神から与えられた安息かどうか祈って、そうだと思えば礼拝を休んで運動会に行く、それは一つの決断です。しかし礼拝に出て、午後から運動会に行く。それもまた別の信仰の決断です。「日曜日に出勤しなければいけない」、多くの場合日曜出勤しなくとも業務に影響がない、労働の束縛から解放されるために日曜日の出社は断る。そのために不利益を受けるのであれば受ける。それもまた信仰の決断です。「夫が病気で寝込んでいる」、夫の看護のために自分が求められていると思えば、礼拝を休むこともまた信仰の行為です。しかしまた、日常の看護から自由にされて力をいただくために、礼拝に出かけることを夫に求める。それもまた信仰の決断です。

・カール・バルトは教会教義学の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題のもとに記し、さらに安息日を巡る問題を扱う章を「祝いと自由と喜びの日」として書いています。このことは安息日の戒めが、本来私たちにとって、「自由を与える特別な日」としての性格を持つことを示しています。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」と考えた時、それは私たちを縛る日になります。そうではなく、日曜日を「礼拝に参加することが出来る日」に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになるのではないでしょうか。安息日は私たちに対する主からの賜物であり、厳しい日常生活からの真の休息と、霊的また肉体的に再生する機会を与えるものです。私たちにこの特別な日を、娯楽や日常の仕事のためではなく、職務からの休息と肉体的、霊的な安らぎのために用いたいと願います。

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