2017年6月11日説教(ローマ13:1-10、愛は隣人に悪を行わない)
1.ローマ13章を巡る議論
・紀元57年ごろ、パウロはローマ教会に当てて手紙を書きました。この手紙はやがて正典に組み込まれ、権威を持つようになります。パウロは手紙の中で語りました「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)。初代教会はイエスの「剣を取る者はみな剣で滅びる」(マタイ26:52)という教えを基礎に、キリスト者が兵士になるのを禁じますが、やがてキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会はローマ13章を基に、キリスト者も国家の命じる戦争には従うべきだとの「聖戦論」を展開するようになります。その後、ローマ13章は宗教改革時において、ルターとミュンツアーの間で農民戦争をめぐって論争された時の双方の根拠とされ(ルターは従うことを強調し、ミュンツアーは改革を強調する)、1930年代のドイツにおいても、ナチス政権の正当性を認めるルター派教会とそれに反対する告白教会の論争においても中心テーマとなります。ローマ13章は教会と国家の問題を論じる上での論争の書になっていきました。
・パウロはローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めます。ここでパウロは主にある服従を勧めています「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:18)。平和に暮らすとは、具体的には「良き市民として暮らす」ことだとパウロは語ります「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。これはイエスの教えを継承すると同時に、終末時にある神の民としての生き方を教えたものです。ところが、パウロがローマ13章を書いてから、数年もしないうちに、ローマの信徒たちは、最初の迫害に遭います。皇帝ネロによるキリスト教徒迫害です。U.ヴィルケンスは、ローマ13章の注解(EKK聖書注解)の中で語ります「パウロは『神の奉公人である』である国家権力に服従することを彼等の良心の義務にしていたが、まさにその『国家権力』が、キリスト者たちを『生ける松明』として、町外れで火あぶりの刑に処することを命じた」。
・パウロ自身も迫害の中で殉教し、以降200間、教会は迫害の下に置かれました。それにもかかわらず、「進んで服従せよとのローマ書の勧めが、殉教者に満ちた教会の中で、中心的な意義を持ち続けた」とヴルケンスは分析します。しかし、度重なる迫害の中で、当然に異論が出てきます「ただ殺されることを神は求めておられるのか、違うのではないか」。教会はローマ13章の服従要求はペテロの留保条項(使徒5:29「人に従うよりは神に従うべきである」)により制限されていると考え始めます。つまり、権力が信仰からの離反を強制する場合には、キリスト者は抵抗しなければならないとの考え方です。ところが、コンスタンティノス帝によるキリスト教公認(313年)は、ローマ13章の解釈を根本的に変えていきます。教会は、「全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と肯定するようになります。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について、従来の考え方を継承しました。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていきます。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権を握り、服従を要求した時です。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法政権として受け入れて行きますが、カール・バルトを中心とした告白教会は「政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきである」ことを主張し、ナチスとの武力を含めた戦いを始めます。中心人物であるボンヘッファーが「ヒトラー暗殺計画」に参加して、処刑されたことはよく知られています。
・私たちキリスト者は社会の中で生きます。ある時代には、「国家が戦争に参加するように求めた」時、キリスト者はどうすべきかが問われる場合が出てきます。戦前の日本では信仰者も徴兵され、イエスが「殺すな」と語られている中で、殺すことを義務付けられ、兵役拒否者は非国民として投獄されていった歴史があります。現代のアメリカでは多くのキリスト者がベトナムやアフガニスタン、イラクで兵士として徴兵され、死んでいっている現実があります。国家に対してどのように向き合うのかは大事な問題です。
2.ローマ書は何故従うことを求めているのか
・ローマ13章はなぜ、国家に対する服従や抵抗を教えているのでしょうか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれる危険性があります。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されるのです。その過ちを防ぐためには、聖書は文脈の中で読むべきです。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えています。直前12章では、パウロは、キリストに召された者として、世の人々と平和に暮らすことを勧めています「すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12:18-19)。直後の13章8節後半でもパウロは「人々と争うな」と勧めます。何故ならば、「愛は隣人に悪を行わない」(13:10)からです。
・このような文脈の中で「この世の秩序維持のためであれば戦争も含めた悪にも従いなさい」という考えは出て来ません。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えています「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従し、そのために貢や税や労役も世に支払います「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めます。だから、パウロは言います「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。
・ローマ13章を当時の時代背景の中で考えれば、パウロは「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否しなさい。しかし報復として殺すということであれば、それは受容しなさい」とローマの信徒に勧めているのです。このように見てくると、ローマ13章でパウロが「政府に対する絶対服従を教え、キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加せよ」と教えているのではないことは明らかです。聖書は例え、国家によって命じられた戦争にあっても人を殺すことが正当であるとは言いません。また逆に、戦争を起こすような政府は神の委託に反しているから、これに従うなとも言いません。聖書が語るのは「悪の権化と思えるローマ皇帝もあなたの隣人として愛しなさい」と言うことです。当時のローマ皇帝は迫害者ネロでした。そのネロを隣人として愛しなさい。パウロは「悪に対して悪を返すな。悪は神が裁いて下さる。その神の裁きに委ねよ」と語ります。
3.あなたがその人の隣人になりなさい
・今日の招詞にマタイ 5:46-48を選びました。次のような言葉です「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。この言葉をローマ13章の文脈の中で読めば、「ローマ皇帝がどのような悪逆な人であっても、例えネロ帝のような人であっても、彼を愛し、彼のために祈り、彼を隣人にしなさい」ということです。
・私たちは、隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っています。しかし、聖書が教えるのは、隣人とは自分を憎む人、自分に危害を加える人です。「そういう人とは隣人になれない」と私たちは抵抗しますが、イエスはその私たちに問われます「あなたの信仰はどこにあるのだ」。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいます。私たちはその人たちが嫌いです。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を愛することが神を愛することだと告げられます。「イエスが罪人のあなたのために死んでくれたから、あなたは新しい命をもらったではないか。それなのに何故嫌いな人のために死ねないのか。パウロはあのネロをさえ隣人として愛せと書いたではないか」。隣人が私たちに悪を働いても報復するな、裁くのは神であって私たちではない。私たちがするべきは自分を憎む者のために祈ることです。その祈りを通して、その人は隣人になっていく。「神の力を信じ通せ、殺されても信じ通せ」、そう命じられています。聖書の教える生き方は理性的に納得できるものではありません。それは「信仰を持って従え」と語られるものなのです。
・信仰ゆえに迫害された時、パウロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるな。祝福を祈れ」と教えました。こういう生き方した人の一人が、非暴力・不服従を貫いたキング牧師です。彼は語りました「私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない・・・私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう・・・しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(マーティン・ルーサー・キング「汝の敵を愛せよ」、新教出版社、1965年、79P)。こういう生き方に私たちは招かれています。