2017年10月8日説教(ヨブ記19:1-29、私を贖う方は生きておられる)
1.友人の絶え間ない問責に怒るヨブ
・ヨブ記の二回目です。私たちは誰もが平穏無事な生活を望んでいます。しかし、現実には、私たちの人生には多くの悲しみや苦しみがあり、平穏な人生が波乱に満ちた苦労の人生になることもあります。「何故悲しみや苦しみがあるのか、その時、人はどうすればよいのか」を語った書がヨブ記です。主人公ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました(1:1-3)。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられ、10人の子どもたちが亡くなる事故が起こり、彼の財産であった何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こります。更に、彼自身に「らい病」が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。最初、ヨブはこれらの災いを宿命として受容れます。彼は「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)と語り、「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と語ります。しかしヨブの内心では、神に対する不信と怒りが渦巻いていました。
・遠くから、三人の友人が見舞いに来て、彼をいかにも「かわいそう」という目で見た時、押さえつけていたヨブの感情が迸りでます。「ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は・・・彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った『私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇になれ』」(2:11-3:4)。
・ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。しかし、返ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」(4:7)、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ彼らをその罪の手に委ねられたのだ」(8:2-4)、「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない」(11:11)。ヨブが求めていたものは慰めでした。しかしヨブに与えられたのは説教でした。
・あるカウンセラーは語ります「カウンセリングにおいて最も重要なことは、相手との関係の樹立であり・・・教理(ドグマ)や固定化したアプローチの仕方は、逆に相手に大きな痛手を負わせてしまう。ヨブの3人の友人たちは,キリスト教のドグマと既成概念に立って真の援助を与えることに失敗する牧師のようなものである」。人を本当に苦しめるものは、外的、肉体的な苦難ではなく、人との関係です。自分が理解されず、逆に責められる時、人の怒りは頂点に達します。何故、聴いてくれないのか、とヨブは叫びます「どうか黙ってくれ・・・私の議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」(13:5-6)。真に苦しんでいる人を慰めることは人間にはできない。答えを示そうとして躍起になることは、逆に相手の苦しみに塩を塗り、傷口を広げていくことに他なりません。出来ることはただ、「その人のために祈る」ことだけです。
2.神を告発するヨブ
・ヨブは正しい人だっただけに、これほどの罰を受けるほどの罪を犯したと自分では思えません。ヨブは神に対して異議申し立てを始めます。人は苦難に意味を認める限りはその苦難を耐えていけますが、苦難の意味がわからなくなった時、苦難は人を圧倒します。ヨブは語ります「私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」(9:22-24)。
・ヨブは神に恨み言を述べます「神は私の道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。私の名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められて私は消え去る。木であるかのように、希望は根こそぎにされてしまった」(19:8-10)。周りの人たちはヨブの相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、また彼の崩れた肉体を気味悪く思い、彼に近づかなくなります。ヨブは嘆きます「神は兄弟を私から遠ざけ、知人を引き離した。親族も私を見捨て、友だちも私を忘れた・・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子も私を拒み、私が立ち上がると背を向ける・・・骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、生き延びている」(19:13-20)。ヨブは三人の友に対して叫びます「憐れんでくれ、私を憐れんでくれ、神の手が私に触れたのだ。あなたたちは私の友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、私を追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」(19:21-22)。ヨブは自分の言葉を墓石に記し、自分の死後に誰かがそれを読んでくれることを願います「どうか、私の言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」(19:23-24)。
3.私を贖う方は生きておられる
・ヨブは人間に絶望しました。その絶望の中で、ヨブは救済者を呼び求めます。今日の主題はここから始まります。ヨブは語ります「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされた後、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」(19:25-27)。今日の聖書個所はヨブ記の中核となる重さを持っています。
・ヨブの語る「贖い主、ヘブル語=ゴーエール」とは、「買い戻す者」の意味です。彼の死後に彼の知人や親戚が彼の名誉回復をしてくれることをヨブは望んだのでしょう。「私を贖う者」の元々の意味から見れば、自分にとって一番血の濃い近親者で、「身請け人」になってくれる人のことです。たとえば、人質になったり、奴隷に売られようとする時に、身代金を払って請け出してくれる人のことを、ヘブル語では「ゴーエール」と言いました(レビ記25:47-49)。この意味から言うと、ここに言う「私を贖う者」というのは、「最後まで私の肩を持ってくれる私の身請け人」、「誰が私を見限っても 決して私を捨てないで私の恥も悲しみも、すべてを引き受けてくれる人」という意味がこの表現に込められています。
・その方は「ついには塵の上に立たれるであろう」とヨブは告白します。ヨブが言いたいのは「自分がだれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土の上まで来て私の恥を雪いで下さる方が、生きておられる。私がその時墓場の土の下にいても、土の塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さない』と、その方は言ってくださる」、そんな確信を表したものです。「私は決して、こんな惨めたらしい敗北者の姿で終わるのではない。人は私の信仰の不毛を笑うだろうが、神は決して私をこのままお見捨てになる方ではない。その神に私は最後まで信頼する。」とヨブは語っています。ヨブは「神を告発する」ことを通して「神を求めている」のです(織田昭聖書講解ノート)。
・私たちに与えられるさまざまな苦しみの意味は、私たちにはわかりません。それでも、私たちは神を仰ぎ見て、どうしたらいいのかと問いかけながら歩みます。神は沈黙して語ってくださらないことが多い。しかし、神がいつか私たちを顧みてくださる希望をもちつつ、日々生活していきます。ヨブ記の最後は、神がヨブを元の境遇に戻して、以前の二倍の財産と十人の子どもを与えて、彼を労わり慰め、幸福のうちに後の人生を歩み終わらせます。私たちが、このヨブのような幸せな最後を与えられるとは限りません。人生の最後を迎える時に、どうしてこんなに苦しめられるのだ、と叫ばなくてはならないのかもしれません。それでも、神の救いを求めて神を仰ぎ見る時、神は必ず私たちの魂を労わり慰めてくださる。そういうメッセージがヨブ記には込められています。
・今日の招詞にマルコ15:34を選びました「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。ヨブ記の言葉「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」は、もともとの意味を超えて、人々に読まれてきました。「仮に自分が無念のままに、汚辱の中で死のうとも、神はそれを知り、いつの日か憐れんで下さるという希望」を人々はこの言葉に見ました。それはイエスの十字架の叫びとも重なります。人は死ねば「塵に帰る」、虚しい存在です。その虚しい存在が今神により生かされている。今生かされているという事実が、死後も生かされるであろうとの希望を持つことを許します。
・ヘンデル「メサイア」の歌詞の一部がヨブ記から採られていることは有名です。メサイア第3部第40曲はヨブ記19:25-26の言葉「私は知る、私を贖う者は生きておられる。またこの肉体が蝕まれようとも、私はこの身をもって神を仰ぎ見るであろう」から採られています。原文では「I know that my Redeemer liveth.and that He shall stand at the latter day upon the earth.And though・・・ worms destroy this body,yet in my flesh shall I see God.」となります。それに続く言葉は第一コリント15:20です「何故ならば、キリストは実際に死者の中から復活し、眠りについている人たちの初穂となられたからだ」(For now is Christ risen from the dead・・・ the first fruits of them that sleep.)。ヘンデルは、復活の希望の中に、不条理の克服を見ています。
・花の詩画集を書いておられる星野富弘さんは、中学校の体育の先生でしたが、クラブ活動の指導をしていた時、鉄棒から落下し、首から下がすべて動かなくなってしまいました。九年間の病院生活のなかで、口に絵筆をくわえて花を描き、詩を書くようになり、三浦綾子の本に出会い、聖書を読むようになって、洗礼を受けてクリスチャンになりました。彼は歌います「私の首のように、茎が簡単に折れてしまった。しかし、菜の花はそこから芽を出し、花を咲かせた。私もこの花と同じ水を飲んでいる。同じ光を受けている。強い茎になろう」。キリストの復活を信じる時、私たちはどのような状況に置かれても、「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」と言えます。そして、この信仰がある限り、折れた茎から新しい芽が生まれるのです。「東北の津波で死んだ人の命も無駄ではない。幼くして死んだ子の命も生かされる」、これが福音に基づく希望です。