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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年10月1日説教(ヨブ記2:1-13、人生にはなぜ苦難があるのか)

投稿日:2017年10月1日 更新日:

2017年10月1日説教(ヨブ記2:1-13、人生にはなぜ苦難があるのか)

 

1.ヨブの物語

 

・今日からヨブ記を読んでいきます。ヨブ記は、「人生にはなぜ苦難があるのか」を追求した書です。私たちは誰もが平穏無事な生活を望んでいますが、現実には、人生には多くの悲しみや苦しみがあり、平穏な人生が波乱に満ちた労苦の人生になることもあります。何故そのような不幸や悲しみが自分に起こるのか、私たちには理解できない。ある人は突然の難病に苦しめられます。ある人は家族を交通事故で失くします。突然、職を解雇されて家族がバラバラにされる人もいます。神がこの世を支配し、私たちを愛しておられるとすれば、何故このような苦難が私たちに起こるのか。「人生には何故苦難があるのか」、人間は昔からこの問いをして来ましたが、誰も答えを持ちません。

・2011年3月に起きた東北大震災もまた人々に大きな苦しみを与えました。2万人の方が亡くなった災害を見て、多くの人が「何故」と問いました。新約聖書をケセン語に訳した医師の山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、岩手県大船渡で震災に遭いました。その時、テレビ、新聞、雑誌などのインタビューアが彼の処に殺到し、繰り返したずねたそうです「こういう実直で勤勉な立派な人々が何故こんな目に合わなければならないのか。神はこういう人たちを、いったいなぜこんなむごい目に遭わせるのか。あなたは信仰者としてどう思いますか」。山浦さんは語ります「わかるわけがない、私は彼らのしつこさに腹が立ってきました」(山浦玄嗣「3.11後を生きる」)。人は因果応報の考え方にとらわれています「災害に遭ったのは何か罪を犯したからだ」と決めつけ、それが見当たらない時は、「お前たちの信じる神はお前を救えないのか。何のために信心するのか」と問いかけます。

・この意味のわからない、不条理な苦しみが、何故あるのかを追求した書がヨブ記です。主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち・・・多くの財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」(1:1-3)とあります。彼は経済的にも社会的にも、家庭的にも大変恵まれていた。ところが、そのヨブに理由のわからない災害が襲います。最初の災いは子どもたちが集まっていた時、家が倒壊し、全員が死ぬという災害でした。10人の子どもたちが一瞬のうちに取り去られました。次に何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こりました。裕福だったヨブが、一夜にして財産を失います。今回の東北大震災でも多くの人がこのヨブと同じ体験をしました。家族を失い、家を失った人々は言いました「私が何をしたというのか。何もしていないのにこの苦しみが与えられるのか。神も仏もいないのか」。それに対してヨブは語ります「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)。「ヨブは信仰を保った」とヨブ記は記します。

 

2.さらなる苦難が与えられる

 

・しかし、追い打ちをかけるように新たな苦難がヨブに与えられます。「らい病」です。らい病は肉が崩れ、腐臭を放ち、感染するので、忌み嫌われ、天刑病=天罰と言われていました。裕福な人、知恵ある者、正しい人と尊敬されていたヨブが、「神に呪われた者」として、周りの人々から卑しみと軽蔑の目で見られるようになります。ヨブは家を離れ、塵の上に座って嘆きます。ヨブ記は記します「サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」(2:7-8)。彼の妻は「神を呪って死になさい」(2:9)と冷たく突き放します。らい病者は神に呪われた者、妻さえもそのような目で彼を見ています。しかしヨブは語ります「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)。「ヨブはこのようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」とヨブ記は記します。

・ヨブは表面的には神への信仰を保持し、告白しています。しかし彼の内面では、神に対する疑いが生じ、動揺し、苦悩していました。それが三人の友人がヨブを慰めるために来た時に爆発します。三人は変わり果てたヨブの姿を見て、言葉を失ってしまいます。「三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(2:11-13)。これまで平静を保っていたヨブが三人の無言の責めに接して終に心が崩れます。友人たちが「ヨブが罪を犯したからこのような災いを招いたのだ」と無言のうちに彼を批判していることが分かったからです。現にエリファズは語ります「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」(4:7)。二人目のビルダトは語ります「あなたが神を捜し求め、全能者に憐れみを乞うなら・・・神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる」(8:5-6)。三人目のツオファルも語ります「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない」(11:11)。彼らは因果応報の立場に立ち、「あなたの災いはあなたが罪を犯したことに対する神の罰だ。神の前に悔い改めなさい」とヨブを暗黙のうちに、攻め立てていたのです。

・その無言の問責に、ヨブは自分の生まれた日を呪い始めます。「私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」。(3:1-4)。ヨブの心が崩れる契機になったのは三人の友の来訪です。人は病気そのものよりも、その病気を通して見える相手の気持ち、「罪を犯したからこのような罰を受けたのだ」という無言の問責に傷つきます。それまでのヨブは表面を取り繕っていましたが、無言の問責を受けて彼の気持ちが崩れました。人を傷つけるものは、人の視線と言葉なのです。「人は人を救うことはできない」、ヨブはやがて語ります「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」(16:2)。

 

3.苦難の意味

 

・今日の招詞にヨハネ9:2-3を選びました。次のような言葉です「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。当時の人々は、罪を犯したから、病気や障害になると考えていました。しかしイエスはそのような因縁、宿命を否定され、「神の業が現れるために」と語られました。

・島崎光正さんというクリスチャン詩人が、次のような詩を歌いました「自主決定によらずして、賜った、命の泉の重さを、みんなで湛えている」。「自主決定によらずして」、島崎さんは二分脊椎症という障害を持って生まれました。二分脊椎は、生まれつき脊椎の癒合が完全に行われず一部開いたままの状態にあります。そのために脳からの命令を伝える神経の束(脊髄)が、形成不全を起こし様々な障害を生じます。医療技術の進歩により、二分脊椎症は障害の有無が誕生前にわかるようになり、障害を持った胎児が中絶される危険性が大きくなってきました。島崎さんは出生前診断の廃止を訴えて活動されました。

・彼はドイツのボンで開かれた二分脊椎症国際会議で証言されます「私は二分脊椎の障害を負った七十七歳となる男性です。私は生まれた時からこの障害を負っていました。両親と早くに離別をし、ミルクで養ってくれた祖母の話では、三歳の時にようやく歩めるようになったとのことです。その時から、すでに足を引いておりました。七歳となり、私は村の小学校に入学しました。やがて市の商業学校へと進学しましたものの、間もなく両足首の変形が現れ、通学が困難となり、中途退学をしなくてはなりませんでした。その遅い歩みの中から詩を綴ることを覚え、今日に至っています」。

・証言は続きます「今、私がもっとも関心を抱いておりますのは、出生前診断のことです。二分脊椎の障害を負った胎児も、診断により見分けのつく時代を迎えています。その時、安易な選別と処置につながることを恐れる者です。たしかに、障害を負って生まれてきたことは、人生の途上において様々な困難をくぐらねばならないことは事実です。私の七十七年の歩みを振り返ってもそう言えます。けれども、それゆえに、この世に誕生をみたことを後悔するつもりは少しもありません。神様から母の陣痛を通してさずかった命の尊厳性は、重いものと考えられます。身に、どのようなハンデを負って生まれて来ようとも、人間が人間であるがゆえの存在の意味と権利は、人類の共同の責任において確保され、尊重されてゆかねばなりません」。

・人は人生に行き詰まりを感じた時、人生の意味を尋ねます。過酷な運命を与えられた人は必然的に自分の生まれたことの意味を問われます。その時、ヨブのように繰り返し「神様、何故ですか。なぜこのような不条理をあなたはされるのか」と問い続ける時に、「神の業がこの人に現れるためである」との声が聞こえてきます。納得できません。しかし納得できなくとも、不条理もまた神が与えたもうものであり、不条理な運命の中に意味があることを見出した時、「運命」が「使命」に変わっていきます。島崎さんは与えられた運命を嘆くのではなく、神が何故この苦難を与えられたのかを模索し、障害を持った子を中絶して葬り去ろうという世の動きを阻止することが自分の使命だと受け止め、そのために生涯を捧げられました。病気や障害が癒されることが神の業ではなく、病気や障害を持ちながらも使命に生かされていく人が現れることこそ、神の業の現れなのだと聖書は語ります。

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