2017年1月22日説教(マタイ9:18-26、二つの癒しの物語)
1.長血を患う女の癒し
・マタイ福音書を読んでいます。今日はマタイ9章18-26節をテキストとして、与えられました。ここに二つの物語が同時進行的に描かれています。イエスがガリラヤにお戻りになった時、会堂の指導者(マルコではヤイロ)がイエスを待っていました。彼の娘が死に、イエスに手を置いてもらうことを求めて来たのです。イエスは求めに応じてヤイロの家に向かいますが、その途上で長い間出血の病気に苦しむ女性と出会われ、彼女を癒されます。そしてイエスはヤイロの家に向かわれ、死んでいた娘をよみがえらせます。
・この個所はマルコ福音書5:21-43に詳細な記事があり、マタイはそれを三分の一に縮めて記しています。今日はマタイ福音書の叙述に従いながら、マルコも参考にして、物語を聞いていきます。本文に入っていきましょう。イエスが人々と話しておられた時、そこに会堂の指導者が来て、「私の娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」とイエスの来訪を求めてきました(9:18)。イエスは既にユダヤ教会から異端の疑いをかけられ、会堂に入ることを禁止されていました。そのイエスの足元にユダヤ教の指導者が来てひざまずきます。「娘が死んだ。しかしこの方なら娘を死から蘇らせることが出来るかもしれない」と一縷の望みを持って、イエスに懇願しました。指導者はイエスの不思議な力のうわさを聞いていたのでしょう。「この人しか頼る人はいない」との思いが、世間体を捨てた行為に導いたのです。イエスは指導者の必死の信仰に感動され、彼の家に向かわれます。
・そこに行く途中、長い間病気に苦しむ一人の女性が、イエスの衣の房に触れました。マタイは記します「十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。」(9:20-21)。この女性の病気は慢性の子宮疾患だと思われますが、当時出血を伴う病気は不浄とされ、ライ病者と同じように、人前に出ることを禁じられていました(レビ記15:25-26)。彼女は長い間、社会から排除されていました。しかし彼女はイエスがライ病者に触れて癒された噂を聞いており(マタイ8:3)、「この方であれば世間とは違う目で見て下さる」と思ったのでしょう。ただ人目をはばかるゆえに、後ろからこっそりとイエスの服に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」、「触れる」と言う言葉はギリシャ語ハプトウ、「握る」との意味を持ちます。この女性は「何とか助けて」と、イエスの衣を必死に握りしめたとマタイは説明しています。
・一方イエスも自分に誰かが触れたのを感じ、振り向いてそこに女性がいることを認められ、彼女に言われます「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(9:22)。イエスはこの女性の苦しみを即時に見抜かれました。病に苦しむだけではなく、社会から排斥され、結婚して家族を持つという、人並みの幸福さえ奪われてきた悲しみを見られました。だから女性に言われます「娘よ、元気になりなさい」。その時、女性の病気は治ったとマタイは記します。女性の必死の思いとイエスの憐れみが共に働き、死んだ屍のようだった一人の女性を新しい命によみがえらせたのです。
2.ヤイロの娘のよみがえり
・イエスは会堂長の家に行かれました。会堂長の家では葬儀の準備が為されていました。イエスは人々に言われます「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」(9:24)。人々はイエスを嘲笑します。彼等は娘の死を現に見ており、眠っているのではないことを知っていたからです。イエスは子どものいる部屋に入られ、子どもの手を取って、起こされます。マタイは記します「群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった」(9:25-26)。
・マルコによればイエスはこの時、アラム語で「タリタ、クム」と言われました。「子よ、起きなさい」という意味です。すると少女は起き上がりました。この物語は単なる伝承ではなく、歴史的な物語の核を持っていると考えられます。「タリタ・クム」というアラム語が伝承されていることは、この出来事を目撃した弟子たちが強い印象を持ち、そのためイエスが言われたアラム語がそのまま伝承として伝えられたと思われます。指導者の必死さがこの出来事を生みました。マルコではこの指導者はヤイロと名前が出ています。名前が残っていることは、ヤイロはマルコの教会では広く知られた人物だったことを推測させます。ヤイロは娘の癒しを通して、イエスに従う者に変えられていった。この物語は単なる少女の病の癒しではなく、父親と娘の二人がよみがえった物語なのです。
3.必死の信仰は答えられる
・今日の招詞にマルコ9:23を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。イエスと三人の弟子が山に登って不在の時、癲癇の病の子を持つ父親が来て、残っていた弟子たちに子の治癒を依頼しましたが、弟子たちは治せませんでした。そこにイエスが帰って来られ、父親に「子を連れて来なさい」と命じられます。父親はイエスに言います「お出来になるなら、私どもを憐れんでお助けください」(9:22)。「お出来になるなら」、これまで多くの医者を尋ね歩いて来たが誰も治せなかった。イエスの弟子も治せなかった。イエスでもだめだろう。父親はそう考えています。イエスは不信仰な父親に対して言われます「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(9:23)。「癒されるのは神である。そして神は私にその力を与えて下さった。これを信じるか」、父親は即座に言います「信じます。信仰のない私をお助けください」(9:24)。「信じきれない自分がいます。でも憐れんで下さい」と父親は懇願します。この父親の必死の言葉を聞いて、子は癒されました。
・ここにマタイ9章と同じ物語があります。「必死の信仰に神は答えて下さる」との告白です。ヤイロは娘が死んだ時、会堂長としての世間体を捨て、イエスに願い出ました。「この人以外には娘の命を救える人はいない」との必死の思いが、「娘に手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返るでしょう」という言葉に現れています。長血を患う女性の場合も同様です。彼女は病気故に周りの人々から排斥され、正面からではなく後ろからイエスに触れます。「この方の服にでも触れれば癒していただける」、その表現の中に女性の必死さが反映しており、その必死さにイエスも応えられます「あなたの信仰があなたを救った」。
・しかし私たちは、現実には「祈っても治らない病気があり、死者が生き返ることがない」ことを知っています。宗教学者の岸本英夫は語ります「私は子供の時には敬虔なキリスト教徒の家庭に育った。私自身も子供らしい熱心な信仰を持っていた。しかし青年時代に、私は奇跡を行うことのできるような伝統的な人格信仰は、どうしても信じることが出来なくなった。その意味で神を捨てたのである。同時に死後の理想世界としての天国や浄土の存在は全く信じないようになった」(岸本英夫「死を見つめる心」)。彼の考え方が典型的な現代人の考え方でしょう。では、私たちはマタイ9章の物語をどのように聞くのでしょうか。
・ここで内村鑑三の体験を見てみましょう。内村鑑三の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、内村は必死に祈りますが、ルツは死にました。その時の心境を内村は語ります「私は私の娘の不治の病が必ず癒されることを信じた。私の耳に響きしはただイエスの言葉であった。『恐るるなかれ、ただ信ぜよ』と。されど私の信仰はついに無効に帰した。私の娘は医師の診察の通りに死んだ。ヤイロの実験は私の実験とならなかった。私の信仰は根底より揺るぎだした」。内村も岸本と同じように信じられなくなったのです。内村は絶望しますが、その絶望の中に、ある時、光が差し込みます。「しかし、私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、『タリタ・クミ』と言いたもうのである・・・われらにヤイロ以上の信仰がなくてはならない。すなわちわが娘は癒さるるも癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神はわれらの信なきを憐れみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りに答えたもう」(内村鑑三聖書注解全集十五巻)。
・内村と岸本を分けるものは信仰の力に対する評価です。青野太潮は論文「苦難と救済」の中で、治癒奇跡は現代においても起こりうると述べます。「絶対的に帰依した対象である教祖なり指導者なりの一言一句が、血となり肉となる形で、信徒の内に本来備わっている自然治癒力を引き出し、想像もしなかったような病気の治癒がそこで為されたりする」 。病気の癒しを行うのは奇跡ではなく、人間に与えられている自然治癒力です。そしてその自然治癒力は信仰の結果として与えられると青野は考えます。「あなたの信仰があなたを救った」とは、「あなたの私に対する信頼があなたの病気を癒したのだ」と言い換えられます。この人間の中にある自然治癒力を強める方向での医療研究が、京都大学を中心にした再生医療研究です。イエスの行われた病気の癒しも、この自然治癒力を基本に考えれば、現代人にも理解可能なのです。
・同時に私たちは、病気を癒された人も、癒されなかった人も、同じようにいつかは死ぬことに注目すべきです。長血を患っていた女性も、ヤイロの娘もやがて死んで行きました。ここにおいて私たちは、「癒し」と「救い」の区別を再度考える必要があります。ギリシャ語では癒しは「イオーマイ」、救いは「ソーゾー」という言葉で、ここでは「ソーゾー」が用いられています。イエスの癒しは単なる病気の治癒だけでなく、永遠的な救いも含まれています。私たちが求めるべきものは癒しよりも救い、死を超えた命です。何故なら癒し=健康の回復があっても人はいずれ死にます。死を超えた救い「ソーゾー」こそ、本物なのです。それこそが内村鑑三の到達した真理です。