2016年9月18日説教(第二ペテロ3:1-18、終末を生きる)
1.終末の遅延にいらだつ人々
・第二ペテロ書を読んでいます。今日が最終回ですが、第二ペテロ書3章は「終末と主の再臨について」語られています。初代教会は世の終わりの日が近いとして、緊張のうちに信仰生活を送っていましたが、それが来ないために、教会内に終末・再臨についての疑念が高まっていました。教会内のある人々は終末、再臨などないのだと主張していました「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか』」(3:3-4)。
・イエスは生前繰り返し、私は再び来ると語っておられました。「それらの日には・・・太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マルコ13:24-27)。初代教会の信仰はこの終末の約束の上に立てられ、人々は全てを捨てて共同生活を行い、この日を待ちました。しかし、いくら待ってもその日は来ません。「主の再臨はないのではないか」という疑念が人々の心に出てきました。ペテロ書は「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(3:9)と語ります。そして「終わりの日は必ず来る。あなた方は日々やるべきことを行ってその日を待て」と勧めます。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(3:10-13)。
2.私たちにとって終末とは何か
・それから2千年が経ち、現在の私たちは、終末がいつ来るかわかりません。しかし、私たちはこの「神の国」とは、「いつか来る」ものではなく、「今すでに来ている」と理解します。従って終末を生きるとは、私たちには、この与えられた人生をどのように生きるかということです。そして時がたてば、私たちのそれぞれの終末、死が訪れます。その時に備えて私たちはどうするのか。二つの選択肢があります。一つはそれを無視することです。預言者イザヤはそのような人々の有様を語ります「しかし、見よ、彼らは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲んで言った『食らえ、飲め、明日は死ぬのだから』と」(イザヤ22:13)。しかしその日に備えて何もしないのは愚かです。イエスは語られます「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」(ルカ17:27)。
・ここで私たちはもう一度ペテロ書の言葉を考えてみます。ペテロ書は語りました「このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(3:8)。天では一日は千年に匹敵する時間であると語られます。一日とはいろいろなことが出来る時間です。同時に、残された時は無限ではありません。前にご紹介した精神科医フランクルは講演の中で語ります「ある人が訊ねた『いずれ死ぬのであれば、人生は初めから無意味ではないか』。その問いに私は答えた『もし私たちが不死の存在だったらどうなっていたのか。私たちはいつでもできるし、また何もかも後回しにするだろう。明日するか、十年後にするかということが全然問題にならないからだ。しかし、私たちがいつか死ぬ存在であり、人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする。つまり、死は生きる意味の一部になっている。苦難と死こそが人生を意味あるものにする」(「それでも人生にイエスという」、春秋社刊、p47-49)。死があるからこそ、この一度きりの人生は貴重なのです。
・だからペテロ書は決断を延ばし、時間を浪費してはいけないと語ります。「愛する人たち、このことを待ち望みながら、傷や汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」(3:14)。パウロも「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(Ⅰテサロニケ4:11)と語ります。そして最後の時には、「やり終えた」との感謝を持って死んでいきなさいとも語ります。もし私たちが死の床で「世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました」(第二テモテ4:6-7)と語ることが出来れば、その人生はいかに祝福されたものでしょうか。これは誰にでも、今からでも努めることが出来る事柄です。そして以後のことは主に委ねます。預言者は語りました「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。主は私たちがどのように生きたかを知っておられるから、天の国でも私たちを迎えて下さることを安心して委ねても良いのです。
3.残された時をどう過ごすか
・今日の招詞にイザヤ46:3-4を選びました。次のような言葉です「私に聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」。バビロン捕囚からの解放の言葉です。バビロンからエルサレムまでの数千キロの道のりを果たして歩けるだろうかと懸念する捕囚の民に、主が語られた言葉です。私たちもどのような老後が待っているかを、不安の中で考えています。村田久行先生(京都ノートルダム女子大学)は、老年期は三つの喪失の時だと説明されます。一つは時間存在の喪失です。将来の希望があるから現在を生きることが出来る、年を取ると時間存在=将来が少なくなり、やり直しが難しくなる。二番目は関係存在の喪失です。人は他人から評価されることによって自己の存在を体感できます。老齢になるとそれは減少し、消滅します。三番目は自律存在の喪失です。肉体の衰えは自己決定の衰えを意味します。年を取るということは、身体が不自由になって自分で出来なくなることであり、担っていた役割を果たせなくなることでもあります。
・しかし老人になっても出来ることがあります。「夜と霧」(原題「強制収容所における一心理学者の体験」を書いた精神科医のフランクルは絶望的な状況の中で、なお人々に生きる力を与えた三つの価値創造があったと語ります。最初は「創造価値」です。フランクルが強制収容所に連れて来られた時、彼は精神医学の論文を隠し持っていました。それは彼にとって自分が生きた証であり、上着の裏に縫い付けて持ち込んだのです。しかし、その原稿は服もろとも没収、処分されてしまいます。 その後、フランクルは紙の切れ端を手に入れ、わずかな時間を見つけては原稿の復元を試みました。何としても論文を仕上げ、世に問いたい。強制収容所でフランクルを支えたのはこの原稿の存在だったといいます。人が何かの作品を作り上げ、あるいは自分がなしていく仕事を通して実現していく価値が、「創造価値」です。
・しかし、創造価値は働けない病人や老人には生じにくくなります。それを補うのが「体験価値」です。一日の労働に疲れたフランクルたちは、バラックに帰る途上で見事な夕焼けに出会いました。その時、一人の囚人がつぶやきます「世界はどうしてこんなに美しいのだろう」。この「体験価値」は、働くことが出来なくとも、病で寝たきりになっても生み出せる価値です。生涯を寝たきりで過ごされた水野源三さんは語りました「神様の大きな御手の中で、かたつむりはかたつむりらしく歩み、蛍草は蛍草らしく咲き、雨蛙は雨蛙らしく鳴き、神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる」。水野さんの詩は多くの人々に生きる力を与えました。
・三番目の価値が「態度価値」です。フランクルは講演の中で、死刑囚と最後の面接をした牧師の話を紹介しています。「死刑囚は牧師に向かって言います『今となっては自分の短い人生のすべてが無駄だったのではないか』。牧師は彼に応えます。『パウロは“私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものだ”と語った(ローマ14:8)。あなたは主のために生きるチャンスは逃したが、主のために死ぬチャンスはまだある』」。それから牧師は死刑囚に語ったそうです『神のみ言葉を心に響くように生き生きと語ることは私には難しい。けれども次の日曜日に説教壇に上がる時、私の教区の人たちはこう思うかもしれない。一体、今日の牧師さんはどうしたのだろう。いつもと全然違う。“説教が心に響いてくる”。私には理由がわかっています。それはあなたです。あなたが勇敢にきっぱりと死に向かって行く姿を見ることが出来たからです。主のみ言葉があなたに働きかけ、主のために生きたことがなくても、主のために死んでいくのを見ることが出来たからです』」。何もできなくとも、心の向きを変えることを通して、私たちは人生を豊かにすることが出来るのです。
・老年期の現実を見つめ、受入れることこそ、良い老後を迎える秘訣ではないかと思います。神は、これまで私たちの苦しみの日々に、私たちを背負って下さってきました。そして今「あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」と言われています。この方に自分の生涯を委ねることを通して、私たちは老や死を受容することが可能になります。「受容」の本来の言葉は「acceptance」です。その動詞形acceptは「喜んで、積極的に受入れる」という意味があるそうです。与えられた現実を積極的に受入れる、フランクルが語るように「人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする」時なのです。老年学では年を取ることには二つの意味があると言われています。一つは「getting old」(年を重ねる)、もう一つは「growing old」(成長して老いる)ことです。パウロが語る「たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていく」(第二コリント4:16)という生き方に私たちは招かれています。