2016年7月24日説教(ユダ1:3-23、混乱する教会の人々への手紙)
1.教会の混乱の中で
・今日はユダの手紙を読みます。ユダの手紙とヤコブの手紙、ペテロの手紙(1,2)、ヨハネの手紙(1,2,3)の七書は公同書簡と呼ばれます。いずれも、初期教会において興り始めた異端の教えに対する警告の書です。イエス運動から生まれた福音がユダヤを超え、ギリシャ・ローマ世界に広がるにつれ、旧約聖書の伝統を持たない人たちが自分たちの世界観・人間観でイエスの告げた使信を理解しようとすれば、当然それは使徒たちの教えから逸脱し、使信の本質が見失われるようになります。そのような異なった理解に対する警告の手紙が各教会に送られました。それが公同書簡です。ユダの手紙の著者は「主の兄弟ヤコブ」の弟ユダとされていますが(1:1)、おそらくヤコブやユダよりも後の、第二世代の牧会者であろうと思われます。共同体に入り込んだ偽教師たちの活動により、諸教会に混乱が生じ、その人々に対して、使徒の教えに固く立って迷わされるなと書簡は警告しています「あなたがたに手紙を書いて、聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うことを、勧めなければならないと思ったからです。なぜなら、ある者たち・・・裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、私たちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、私たちの主であるイエス・キリストを否定しているからです」(1:3-4)。
・「神の恵みをみだらな楽しみに変える者たち」、「イエス・キリストを否定する者たち」等の表現より、「自分たちは恵みによって律法から自由になったのだから何をしてもよいのだ」と主張する人々の群れが教会に入り込み、性的放縦を含む快楽主義的な教えと行動が諸教会に入り込み、教会に混乱が生じていたのです。著者は反論します「主は民を一度エジプトの地から救い出し、その後、信じなかった者たちを滅ぼされたのです・・・ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています」(1:5-7)。「みだらな行い」、「不自然な肉の欲」、規律をなくした信仰が混乱をもたらしたのでしょう。
・ユダは旧約聖書やユダヤ教黙示文学を引用しながら、彼らの本質が「神の栄光ではなく、自分の栄光を求める者」であると語ります。「不幸な者たちです。彼らは『カインの道』をたどり、金もうけのために『バラムの迷い』に陥り、『コラの反逆』によって滅んでしまうのです」(1:11-13)。カインは兄弟を殺し(創世記4:5-12)、バラムは報酬を得てイスラエルを呪い(民数記25:1-9)、コラはモーセに代わって指導者になろうとした人物です(民数記16:1-35)。牧会者の役割は「仕える」ことですが、彼らは「仕えられる」ことを求めたようです。
2.仕えられるのではなく、仕える信仰を
・ユダは彼らを批判します「こういう者たちは、厚かましく食事に割り込み、わが身を養い、あなたがたの親ぼくの食事を汚すしみ、風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木、わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波、永遠に暗闇が待ちもうける迷い星です」(1:12-13)。偽教師たちは自由を主張しましたが、彼らはそれを「何をしてもよい自由だ」と誤って理解していました。キリスト者の自由とはパウロが語ったように「私には、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」(第一コリント6:12)という自由です。「仕える自由」であって、偽教師たちの主張するような、「何をしてもよい自由ではない」、偽教師たちはキリスト者の自由をはき違えていたのです。さらにユダは偽預言者たちの生き方を批判します「こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。」(1:14-16)。教師が自分の利益のために働くとき、教会は教会でなくなります。
・教会は人の集団であるため、異なる伝統を持つ人たちが加入すれば、分派活動や、異端的な福音を述べる者が出てきます。ユダは信徒たちに語ります「愛する人たち、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、あざける者どもが現れ、不信心な欲望のままにふるまう。』この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊を持たない者です」(1:17-19)。偽教師たちは物質的欲望の充足に関心を持つが、あなた方は違う、あなた方はキリストの霊をいただいているではないかとユダは語ります。「愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いて下さる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(1:20-21)。そしてユダは偽教師らによって惑わされている者たちのために働くことをも命じます「疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい」(1:22-23)。
3.教会がカルト化する時
・ユダの手紙は問題を含んだ文書です。歴史的に見ても、四世紀に正典と認められるまで本書については様々な否定的評価がありました。また宗教改革者ルターは本書を否定的に評価し、現代の聖書学者の中にも、「この書は偽教師に対する、非常に力強くはあるが皮相な反論以外ほとんど何も含んでいない」(W.マルクセン)等の厳しい評価もあるようです(越川弘英・ユダ書釈義と黙想から)。しかし、私たちはこの書を神により与えられた書として読んでいきます。現代の私たちに、異端やカルトの問題を考える契機を与えるからです。そのための招詞として、マタイ7:19-20を選びました。次のような言葉です。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。何が正しくて、何が間違っているかは、その実を見ればわかる。良い実を結ばない木、あるいは教えは間違っているのです。
・ウィリアム・ウッド著「教会がカルト化する時」によれば、韓国で1970年代から爆発的な伝道がスタートし、信徒数が数千人、数万人のメガチャーチが生まれ、「信徒数が多い教会」こそが、祝福された教会と考える風潮が生まれました。そしてクリスチャンが少ない日本でもメガチャーチを作ろうと考える牧師が現れるようになり、その過程で、効率良く、速成で信徒数を増やせる、弟子訓練やセルチャーチ的な手法が用いられるようになり、それが行き過ぎて、日本でもカルト化した教会が現れてきました。
・北海道大学で宗教学を専攻する櫻井義秀氏はカルト問題について、次のように語ります「福音主義の教会が北米や南米、韓国、日本において教勢を拡大している背景には、信仰上の指導が生活全般に及ぶため、結果的に生活の状況改善が救済財として信徒に評価されやすいということがある。生まれ変わった、生活の仕方が変わったとなる。しかし、この指導が強制力を持つようになると、教会がカルト化しやすくなる。カルト化する教会は次のような特徴を持つ。一つは教会成長のビジョンが成功し、創業者がカリスマ的になり、権力の乱用が起こる(純福音教会は一代で急成長し、信徒80万人の世界最大の教会になったが、主任牧師が教会資金を個人的に用い、2014年背任罪に問われた)。二つ目は教会成長をもたらすのは信徒による熱烈な布教活動で、実績を焦って強引な勧誘をしたり、脱会者に圧力をかけたり等のカルト化が現れてくる。布教実績が信仰の成長とみなされ、分不相応な献金や布施が要求され、ない場合はローンを組むことさえ強制される(国際キリストの教会、2003年社会問題化)」。
・こうしてカルト化した教会が社会問題を起こすようになります。櫻井氏は続けます「数千人規模のメガチャーチも個人宅でなされる数百のセルチャーチによって支えられている。弟子訓練と称されるセルのリーダーを育てる強化ブログラムは信徒の教会生活だけでなく、日常生活にも介入し、行き過ぎると、「指導者-弟子」関係が、「訓育—服従」関係になってしまう(2008年小牧者訓練会・国際福音教会でのセクハラ事件が発生)。さらに二元論的世界観、罪認識、神とサタンの戦い、終末等が強調され、信徒は神の代理人である指導者に従うことが信仰的となり、教会が権威主義化し、異言やカリスマによる癒し、悪魔祓い等を強調するカリスマ・ペンテコステ運動では、心霊治療等で信徒を集め、教団批判者を悪魔と呼ぶ等の過激行動に走りやすい」(櫻井義秀「宗教とカルトのあいだ」、宗教研究、2009年9月30日)。
・日本で最大のカルト集団と目されるのは「エホバの証人」で、22万人の信徒が日本にいるとされています。教団脱会者からの聞き取り調査を行った猪瀬優理氏の報告によれば、「エホバの証人はこの世はサタンの世であり、救われる(ハルマゲドンで滅ぼされず、天の王国に入る)ためには伝道活動を最優先しなければいけないと教えられる。フルタイムの仕事を持つことや大学進学さえも、伝道活動の妨げとして否定される。また月50時間以上の伝道活動が義務化され、バプテスマを受けた後に教団から脱会した者は背教者となり、家族や友人も背教者と口をきいてはいけないと命じられる」(「ものみの塔聖書冊子協会の脱会者研究」、2002年、「宗教と社会」8号より)。人を精神的に追い詰め、不幸にする教えは、どこかが間違っている教えです。
・教会がカルト化する時、教会はもはや救いの場ではなく、貪りの場になってしまいます。その時、ユダの言葉が響いてきます「愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いて下さる、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい」(1:20-21)。カルト化した教会では、カリスマ的な牧師の言葉が絶対視され、キリストが見失われていきます。私たちが拝むべき方はキリストのみです。ユダが強調するのはそのことです「あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン」(1:24-25)。この手紙は長老ユダの切実な祈りの下で書かれた手紙なのです。