2016年11月13日説教(ヤコブ3:6-18、舌を制御しなさい)
1.舌は火であり、人を殺す力を持つ
・ヤコブ書を読んでおります。ヤコブ書3章は「人間の舌」が持つ恐ろしさ、罪を語った箇所です。ヤコブは語ります「舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:6)。人は万物を支配しています。しかし舌を制御することはできません。ヤコブは語ります「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(3:7-8)。
・舌は燃えさかる火のように相手を焼き尽くしてしまいます。教会においても舌の害は大きい。何故ならば、人は口で神を讃美しながら、同じ口で神の子である兄弟姉妹を呪う存在であり、それ故に教会の中でも争いが絶えません。ヤコブは語ります。「私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9-10)。教会も人の集団ですからそこに様々な派閥が生まれ、それぞれの間に争いが起こります。その中で興奮のあまり相手を罵る人も出てきます。信仰生活がある時は人間的になり、別な時には神に向いてという生活をしているから、二枚舌になるのだとヤコブは語り、「洗礼を受けて変えられたにもかかわらずそうであるのは、信仰に問題があるからではないか」と問いかけます。
・人間の本性は罪であり、その罪が舌を通じて人を害します。舌が邪悪であるということは、心が邪悪であることを意味します。ヤコブは語ります「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。私の兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません」(3:11-12)。自然界にはありえないことが人間には起こっている。「舌で父である主を賛美し、同じ舌で人間を呪う」という、あってはならないことが生じている。なぜそのようなことが起こるのか、イエスが言われたように、「人の口からは、心にあふれていることが出て来る」(マタイ12:34)、舌が勝手に語るのではなく、心からあふれることが言葉になる。心を制御できないから舌を制御できない、問題は心なのだとヤコブは語るのです。
・私たちも舌の怖さを知っています。学校でも職場でも家庭でも、私たちは人の言葉に傷つけられた経験があるから、今度は傷つけられまいと防御して暮らしています。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからです。私たちが誰かを妬ましく思う時、その思いは言葉となって相手を攻撃します。私たちが誰かを嫌いだと思う時、その思いが言葉となって相手を傷つけます。ヤコブはそれを次のように表現します「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう・・・移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:5-7)。近年のいじめにあるように、「ウザイ」、「キモイ」「シネ」という言葉が中学生や高校生を自殺に追いつめています。あってはならないことが生じています。
2.舌を制御するためには神の知恵が必要だ
・舌を制御するためには心を制御しなければいけない。そのためにはまず「上からくる神の知恵」を求めよとヤコブは語ります。智恵には「上からくる神の知恵」と、「下からくる世の知恵」があるとヤコブは知恵を区別します。世の知恵は「自分の力や賢さで絞り出す智恵」であり、それは「人に妬みや利己心や傲慢や嘘」をもたらします(3:14-15)。ヤコブが次の4章でそれを詳細に述べます「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(4:1-3)。争いこそが下からくる智恵、世の知恵のもたらす結果です。
・それに対して「上からくる神の知恵」は「人を純真で温和で従順」にします(3:17)。神の知恵とは何か、パウロは語ります「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが・・・召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(第一コリント1:21-25)。「神の知恵」とはキリストのことです。キリストに従うことを通して与えられる知恵です。そしてキリストは十字架上で、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(第一ペテロ2:23)。「ののしり返さず、人を脅されなかった」キリストに従うのであれば、「人を呪う言葉があなたの口から出るはずは無いではないか」とヤコブは語るのです。
・妬みや利己心は私たちの心に住む悪(原罪)から来ます。人間の制御できない悪が、制御できない舌を生み、それが人を傷つけています。その制御できない悪を制御できるのは、神の知恵であるキリストだけです。キリストに出会って変えられる、そのことだけが私たちを原罪から、そして舌の悪から自由にします。私たちはそのキリストの生き方を学ぶために、聖書を読み、祈ります。しかし、一人では十分ではないから、共に集まって聖書を読み、共に祈ります。それが教会です。ミッションスクールで有名な女子学院は1890(明治23)年に創立されましたが、当初は学則を一切作らなかったそうです。初代院長を務めた矢嶋楫子(かじこ)は生徒たちに、「あなた方は聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と語ったそうです。私たちの生き方の究極の姿がこの言葉の中にあります。
3.本当に人を汚すものは何か
・今日の招詞にマルコ7:15を選びました。次のような言葉です「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。ファリサイ派の人たちは、イエスの弟子たちが手を洗わずに食事するのを見咎めました。彼らは「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(7:5)とイエスを問い詰めます。当時のユダヤたちは言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってから出ないと食事をしませんでした。ユダヤ人の律法は不浄なものに触れることを禁じ、一定の食物については汚れているから食べるなと命じています。ファリサイ人らはそれらの規定を厳格に守り、守らない人々を不信仰者、罪人と批判していました。従って食事の前に手を洗うことは、単なる衛生上の問題ではなく、宗教的な儀式であり、イエスと弟子たちはその宗教的な戒めを破ったとして非難されているのです。
・それに対してイエスが言われたのが、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。人から出て来るものこそ人を汚す」(マルコ7:18-19)。当時のユダヤ人たちは、「外から体に入るものが人を汚す」と考えていました。しかし、イエスは「外から入ってくるものは人を汚さない」と言われます。「外から入るものは腹の中に入り、外に出される」からです。ここでは食物のことが言われています。食物は口から入り、消化器官を通って、やがて排出されていきます。その間に消化がなされ、栄養分が体に吸収されます。食物は私たちの中を通過していくだけで、私たちを汚さない。
・しかし「人から出て来るものこそ、人を汚す」、つまり「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来る」(7:21a)とイエスは語られます。その悪い思いとは「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」(7:21b-22)です。そして「これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(7:23)。人間の汚れ、罪は心に宿ります。汚れ、罪が心に宿るということは、問題は外側ではなく、内側にあるということです。私たちの汚れや罪は、外から来て体に入るのではなく、私たちの内側に、心の中に生れ、それが外に現れてくる。ヤコブが語りたかったこともそうです。
・今回行われた米国大統領選挙でトランプ氏が勝利しました。トランプ氏の主張は驚くほどファリサイ人の主張と似ています。彼は「イスラム教徒が米国の安全を脅かしている」、「不法移民が米国民の雇用を奪っている」、だから高い壁を造り、外から悪しき人々が入らないようにしようと主張し、国民の心をつかみました。また「米国の鉄鋼業や石炭産業が衰退したのは、中国や日本の輸出のせいだ。関税を高くして輸入品の流入を阻止しよう」と訴えました。「外から入るものが人を汚している」とトランプ氏は主張しましたが、真実はイエスが言われたように、「外から入るものは人を汚さない。中から出るものが人を汚す」。米国の鉄鋼業や石炭産業の衰退は時代の流れであり、移民の流入こそ社会を活性化している事実に眼をつむる時、そこから「良いものは出ない」。聖書はいつでも時代を見る確かな目を、私たちに提供してくれる神の知恵だと思います。
・イエスは「人の中から出て来るものが人を汚す」といわれました。内側の汚れは水でいくら洗っても、清くはなりません。「これは汚れているから食べない」と努力しても、汚れを気にして、家に清めの水がめを置いても問題は解決しません。イエスの弟子たちは、過去の生き方を捨てました。私たちも捨てる、これまでと変わる必要があります。人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しません。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。私たちの心が変えられること、復活のイエスとの出会いを通して新しく生まれる以外に救いはないのです。