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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年9月11日説教(第二ペテロ2:1-16、異端の克服)

投稿日:2016年9月11日 更新日:

2016年9月11日説教(第二ペテロ2:1-16、異端の克服)

 

1.グノーシスという異端

 

・第二ペテロ書の二回目です。初代教会は「悪の世が裁かれ、キリストが再臨されて、神の国が来る」ことを待望していました。しかし、イエスに従った直弟子たちが相次いで亡くなり、ユダヤ人の信仰の中心だったエルサレムとその神殿が滅ぶという大事件が起きても、神の国は来ませんでした。終末を待望していた教会の緊張感は弛緩し、信徒たちは目標を失い始めています。このような中で、教会の先行きに危機感を持ったペテロの弟子たちが、ペテロの名によって諸教会へ手紙を書いた、それが第二ペテロ書で、書かれた時は紀元100年頃とされています。

・当時のキリスト信徒にとって、救いとは、「イエスが再臨されて、イエスと共に神の国に入る」ことでした。その希望についてパウロは語ります「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません・・・合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」(第一テサロニケ4:15-18)。ところが、その再臨がいつまで待っても来ない。教会の中に「本当に神の国は来るのか」、「来るのであれば神の国はいつ来るのか」、「神の国が来るまで何をすればよいのか」と問いが生まれました。教会の中のある人たちは終末などないのだと言い始めています「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(3:4)。

・著者はこのような者たちを、「欲望の赴くままに生活してあざける者たち」(3:3)と呼びます。この人たちがグノーシス(認知主義)と呼ばれる異端の人々です。ペテロ書は語ります「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖って下さった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです」(2:1-2)。ギリシャ哲学は「肉体は精神の牢獄」であり、霊こそが人間の本質であるとして、肉を軽視しました。その影響で一部の人たちは、キリストの受肉(神の子が人となってこられた)や十字架の贖罪(神の子が死んで罪が赦された)、さらには復活(神の子は死なれたが甦られた)さえ否定するようになり、今は再臨の否定論者となっています(3:4)。

・再臨、終わりの日の救いを信じない時、人は現世を楽しむしかありません。死の先に何もないからです。当時書かれた文書である旧約外典「知恵の書」では、救いを信じることのできない人々の言葉を記しています。「我々の一生は短く、労苦に満ちていて、人生の終わりには死に打ち勝つすべがない。我々の知るかぎり、陰府から戻って来た人はいない。我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる・・・だからこそ目の前にある良いものを楽しみ、青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう。高価な酒を味わい、香料を身につけよう。春の花を心行くまで楽しむのだ」(知恵の書2:1-7)。

・「我々は偶然に生まれ、死ねばまるで存在しなかったかのようになる。だから目の前にある良いものを楽しみ、この世をむさぼろう」と考える者たちの生活は享楽的になります。ペテロの弟子たちは彼らの非道徳性を激しく糾弾します「彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なる時、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています」(2:13-14)。

・教会の中にこのような虚無的な生き方をする人々が現れ、悪影響を及ぼすようになった。ペテロ書は彼らを厳しく弾劾します「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません」(2:3)。彼らは信仰の美名の下に、自己の欲望を正当化する者であり、神は彼らを裁かれるとペテロ書は語ります。「神は、罪を犯した天使たちを容赦せず、暗闇という縄で縛って地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました」(2:4)。以降、裁きの様子が語られますが、その語りは旧約聖書や当時の黙示文学からの引用であり、現代の私たちには理解が難しい内容です。

 

2.ニヒリズムという異端

 

・しかし、「死の先に命があることを信じられない時、人は虚無的にならざるを得ない」というペテロ書の主張にはその通りだと思います。古代のグノーシスという異端の本質は、今日でいう「ニヒリズム」なのです。彼らは語ります「我々は偶然に生まれ、死ねば、まるで存在しなかったかのようになる」。どうせ死ぬ、将来に希望を持てない、だから今を刹那的に生きる。これがニヒリズムの本質で、キルケゴールはこのニヒリズムを「死に至る病」と語りました。死に至る病とは絶望であり、ニヒリズムは絶望を生みます。歴史の用例では、異端とは正統に対して用いられ、多数派が正統となり少数派が異端として迫害されます。しかしペテロ書における異端はそうではなく、人々から希望を失わせるゆえに、排撃せざるを得ないとペテロの弟子たちは語ります。

・この「ニヒリズム」は現代社会においても大きな害毒を及ぼしています。近藤剛は論文集「神の探求」の中で、神を喪失した現代人の不安を次のように描きます。「私たちはどこから来たのか、どこへ行くのか、私たちが生きていることに何の意味があるのか、死ねばどうなるのか、かつて、このような人間存在の問いに、神が答えを与えてくれた。神から答えを得て、それを信じて、人々は安堵することができた。しかし、そのような神はどこにもいない」 。ニーチェは語りました「神は死んだ」。「現代人はもはや神を信じることが出来ない」、「神への信仰は死んだ」とニーチェは語るのです。もしニーチェが語るように「人が生まれてきたことに何ら目的はなく、生きていることに何の意味はなく、私たちの存在には何の価値も与えられず、私たちの生存には必然性はない」 ということであれば、私たちはどう生きればよいのか。ニヒリズムは人に、人生の意味を喪失させ、未来に対する希望を閉ざします。ニーチェ自身も「人生の無意味さ」に耐えられず発狂し、自殺しています。現代世界も生きがいの喪失に悩んでいます。だからこれほど多くの人が自ら死を選ぶのです。第二ペテロ書が私たちに訴えているニヒリズムの排斥は、まさに現代の問題ではないかと思えます。

 

3.ニヒリズムの克服~死後の命に望みを抱く

 

・今日の招詞に第一コリント15:54を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた』」。パウロがコリント教会に宛てた手紙の一節です。人間は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「与えられた現在の命を懸命に生きよ」と教えます。その中でパウロは、「キリストが復活され、彼は眠りについた人たちの初穂となられた」(第一コリント15:20)と語ります。それ故に「死は勝利にのみ込まれた」と。「キリストが復活したように私たちも復活する」とパウロは希望しています。そして復活は絵空事の出来事ではない、復活のキリストは「ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れ・・・ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ・・・最後に私(パウロ)にも現れた」(第一コリント15:5-8)と彼は証言します。

・「復活」という事柄は、本当に起こったのかを客観的に証明することはできない出来事です。復活はあくまでも私たちがそれを信じるかどうかにかかっている問題です。そして、復活を信じるかどうかは、私たちが現在をどう生きていくかを決定します。復活を信じることが出来ない時、人生は死で終わります。死で終わりますから、現在を楽しむことに関心は集中し、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身だから」(Ⅰコリント15:32)という生き方になります。しかし、その楽しみもやがて終わります。人はすべて死ぬからです。

・しかし、キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。淀川キリスト教病院のホスピス長として多くの死者を看取ってきた柏木哲夫氏は、その経験から語ります「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」(柏木哲夫「死にざまこそ人生」)。柏木氏の言葉は経験的真実です。そして「キリストは眠りについた人たちの初穂となられた」というパウロの証言は目撃証言的真実です。キリスト者はこの経験的真実と目撃証言的真実を基礎に、復活の希望を持つのです。そしてそれ以上に私たちは神を感じた時に永遠の命を信じることが出来ます。マザー・テレサはそれを、行動を通して人々に示しました。岸本羊一氏は語ります「マザー・テレサがカルカッタの町の中で、たくさんの死にかけている人々を拾うように連れてきて、その人たちの最後を看取る時に、多くの人たちは笑みを浮かべながら『ありがとう』と言って死んでいくそうです。これは一体どういうことなのか、と考えさせられます。孤独の死ではなく、死まで一緒にいてくれる人がいることを通して、死にゆく人たちは死を克服するという体験をしているのです。私たちにとって神というのは、理屈で考えられるような彼方の存在ではありません。私たちは神の御業を通して愛に出会うのです」(岸本羊一「葬りを超えて」)。イエスやマザーの生き方に私たちが従い始めた時、私たちは「ニヒリズム」を克服し、「神の国は既に来ている」ことを証しする存在になることが出来るのです。

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