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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年5月29日説教(ヨハネ黙示録22:6-20、主イエスよ、来たりませ)

投稿日:2016年5月29日 更新日:

2016年5月29日説教(ヨハネ黙示録22:6-20、主イエスよ、来たりませ)

 

1.新しいエルサレムの希望

 

・ヨハネ黙示録を読み続けてきました。本日が最終回で、黙示録22章を読みます。黙示録では21章では神の国が新しいエルサレムとして出現したと語られ、22章6節からキリストの再臨によって天にある神の国が地上に降って、神の国が完成すると語られます。21章からその次第を見ていきます「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」(21:1-2)。古い世界は滅ぼされ、新しいエルサレムが天から降りて来た。このことが示しますのは、イエス降誕により始まった神の国が、イエス再臨により完成したことです。神の国では、死も悲しみも嘆きもなくなります。神が共におられるからです。「私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(21:3-4)。
・21章後半からは新しいエルサレムの幻が語られていきます。ヨハネは語ります「私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」(21:22-23)。新しいエルサレムではもう太陽も月も神殿も不要です。神が共におられるからです。都の中央には川が流れ、両岸には命の木が植えられています。かつて失われたパラダイス(エデンの園)が今、回復されたとヨハネは語ります。創世記の失楽園から始まった聖書の物語が、黙示録の楽園回復で完了します。ヨハネは語ります「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって・・・神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている」(22:2-4)。

 

2.キリスト再臨の幻

・天使はヨハネに全ての幻を見せた後、「これらの幻は真実であり、書き記して地上の人々に送れ」と命じます。そしてキリスト自らがヨハネに語られます「見よ、私はすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」(22:7)。キリストはさらに言われます「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」(22:10-12)。「時は近づいている。私はすぐに来る」と天上のキリストは繰り返し語られます。

・キリストの命令に応じて、天から地から、人々の声が上がります「主よ、来たりませ」、アラム語マラナタMaranathaの合唱です。「“霊”と花嫁とがいう『来てください』。これを聞く者もいうが良い『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(22:17)。ヨハネ黙示録は「私はすぐに来る」というキリストの言葉で終わります「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください」(22:20)。

・「私はすぐに来る」とキリストは何度も語られ、ヨハネの教会はそのことに希望を見出しました。しかし、それから時が過ぎてもキリストの再臨はなく、神の国は来ません。世は相変わらず悪の世です。黙示録から50年後、紀元150年ごろに書かれたペテロ第二の手紙でも人々はこの問題で悩んでいます。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(第二ペテロ3:9)。人々は再臨を待ちきれず、「私こそ再臨のイエスである」という主張が歴史上、繰り返し出てきました。統一原理の人々は教祖文鮮明こそ再臨のイエスだと語ります。カルトと呼ばれる信仰の多くは、黙示録を根拠として生まれてきました。

・ヨハネは22:18—19で述べます「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」。この言葉をどう解釈すべきでしょうか。2007年に行われたギャロップ調査によれば、アメリカでは31%の人が「聖書は神の言葉であり、字義どおりに理解されなければいけない」とした逐語霊感説の立場に立つそうです。この読み方を取った場合、人は自分の置かれた立場で聖書を読み始めます。ヨハネは自分たちを迫害するローマ帝国をサタン支配下にある獣と呼びましたが、この獣が宗教改革期においては敵対するローマ法王となり、ピューリタン時代には迫害者英国国教会になり、日本支配下の朝鮮においては日本帝国主義になって行きます。私たちはヨハネ黙示録をあくまでも「福音~キリストの喜ばしきおとずれ」として読んでいきます。

 

3.再臨の信仰に生きる

 

・今日の招詞に第一コリント11:26を選びました。次のような言葉です。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」。パウロは使徒たちから伝承として受け継いだ言葉をコリント教会に伝えました。その言葉が教会の「主の晩餐式」の制定の言葉になっています「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました』」(第一コリント11:23-24)。主の晩餐式は、イエスが弟子たちとの最後の食事の時に、『私の全てをあなたがたにあげるから、あなた方は共に集まり、共に食べなさい』と言われたことを記念するものです。共に食べてこそ意味があるのに、コリント教会では、金持ちは金持ちで集まって豊かな食事を行い、貧しい人が遅れて来た時にはもう何も残っていないために、ひもじい思いで帰るという現実がありました。パウロは「それがイエスの死を記念する共同の食事にふさわしいと思うのか」と問いかけます。

・パウロは伝承された言葉を続けます「食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」(11:25)。何のために主は死なれたのか。あなた方を一つにするためではないか。それなのに、あなた方勝手に飲み食いして教会を壊している。そのような晩餐式は主の晩餐式ではないとパウロは語ります。パウロは続けます「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」(11:26)。「キリストが死んでくださったから、あなたたちは自分の罪を知り、悔い改めてここにいる。そしてキリストが再び来られて、完全な救いが実現する日が来ることを望んでいる。私たちはキリストの十字架とキリストの再臨という二つの出来事の間にいる。バイオリンは上と下をきつく締めて、弦を強く張ることによってきれいな音色を出す。あなた方は弦が緩んだバイオリンではないか。どこにキリストの響きがあるのか」とパウロは語ります。

・私たちは「キリストの十字架とキリストの再臨という二つの出来事の間」に生きています。この時間を生きるとはどういう生き方なのか。ヨハネは神の国について語りました「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」(22:5)。私たちは人生に様々な願いを持って生きています。「良い仕事をしたい。良い家庭を築きたい。充実した人生を送りたい」と多くの人は希望します。私たちは80年か90年のこの世の生を終えれば天に帰り、神の前で最後の審判を受けます。その審判の基準は「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは私にしてくれたこと」(マタイ25:40)との判別です。どのように隣人のために生きたか、が基準になります。そして「お前は良く生きた」といわれた人は神の国に入り、第二の人生を歩みます。この世の人生は80年か、90年であり、それに対して第二の人生は永遠です。その第二の人生の鍵が「今をどう生きたか」で決まるとすれば、私たちの人生の目標は変わります。「充実した人生」より大切なものがあることを知ったからです。

・内村鑑三は「後世への最大遺物」という講演の中で述べます「私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない。では何をこの世に残していこうか・・・誰でも残せる、そして他の人にも意味のある遺物こそは、“高尚なる勇ましい生涯”である・・・この世の中は悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であることを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中ではなくして、歓喜の世の中であるという考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世への贈り物として、この世を去るということです」。

・ヨハネ黙示録の世界を単なる幻想と思う時、それは何の力も持ちません。しかし「イエスは生きておられ、勝利される」という現実の出来事がヨハネの時代に起こり、現代でも起こり続けていることを私たちが信じる時、天上の勝利が地上の勝利に変わります。この世には闇の力としか思えないような苦しみ、どうしていいかわからない苦難があります。その時、「神には出来ないことはない」と本気で信じて行為していく時、現実が変えられていきます。信仰とは、日曜日に教会に来て個人的な慰めを受ける、ただそれだけではない広がりを持ちます。主イエスは「私はすぐに来る」といわれました。神の国がいつ来るのか、私たちは知りません。しかし神の国は、私たちがキリストを心の中に迎えた時、もうそこに来ているのです。「見よ、私は戸口に立ってたたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(黙示録3:20)。

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