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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年3月13日説教(ヨハネ18:15-27、ペテロの否認とペテロへの委託)

投稿日:2016年3月3日 更新日:

2016年3月13日説教(ヨハネ18:15-27、ペテロの否認とペテロへの委託)

 

1.自らを引渡されるイエス

 

・受難週を迎えています。イエスと弟子たちは最後の晩餐を終えると、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園に向かいます。ヨハネは記します「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」(18:1)。キドロンの谷の向こうにゲッセマネの園があり、そこはイエスが祈るためにしばしば訪れた場所であり、裏切ろうとしているユダもよく知っていた場所でした(18:2)。ユダが良く知っている場所、イエスはあえて危険な場所に進んで身を置かれたのです。ある人は言います「イエスは逮捕されたのではなく、逮捕させたのだ」と。何故ならば、それが父の御心であることを知っておられたからです。

・そこにユダに率いられたローマ軍の兵士と、神殿警備の兵士たちが、武器を手に来ました。イエスはそれを予期しておられたので、自ら進み出て言われます「誰を探しているのか」。ここでイスカリオテのユダの役割がわかります。彼はイエスを逮捕するための道案内として雇われています。ユダが引き受けなければ、大祭司たちは他の者を探し出したでしょう。イエスの逮捕劇において、ユダは決定的な役割は果たしていない、逮捕劇の主役はあくまでもイエスであり、彼は自ら逮捕されようとしておられるのです。マタイによれば、イエスはこのユダに「友よ」と呼びかけられます(マタイ26:50)。ユダもまたイエスの赦しの中にあったことを銘記すべきです。

・「誰を探しているのか」というイエスの問いに対して、兵士たちは答えます「ナザレのイエスだ」。イエスはそれに対して、「私である」と言われます。自分たちを恐れもせずに、丸腰で迫ってくるイエスの勢いに押され、捕り手たちは後退します。イエスは重ねて「誰を探しているのか」と問われました。兵士たちは「ナザレのイエスだ」と繰り返します。イエスは彼らに攻め込まれます「私であると言ったではないか。私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(18:8)。私を逮捕することが目的であれば、弟子たちは去らせよとイエスは言われました。イエスは自分のためには捕縛を覚悟された、しかし弟子たちのためには、無事に逃れることが出来るようにその安全に気遣いされた。ここに良い羊飼いとしてのイエスの姿があります。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」のです(10:11)。

・この時、ペテロがイエスを守ろうとして剣を取り、大祭司の手下に切りつけて耳を切り落としました。しかし、イエスはペテロに剣を収めよと言われます「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(18:11)。十字架は父が定められた必然の出来事であり、「それを受け入れていくのだ」とイエスはペテロを叱っておられます。イエスはこの出来事を避けようと思えば、避けることが出来た状況の中にありました。エルサレムに来なければ十字架はなかった。ユダが良く知っているゲッセマネに来なければ、逮捕も免れたかもしれない。しかし、イエスはそうされなかった。イエスが死ぬことを通して、救いが生まれるからです。ここにおいて、私たちは、イエスの十字架が、「受難」と言う消極的な出来事ではなく、「引渡し」(ギリシャ語パラディドーミ)という能動的な行為であったことを知ります。

・マルコは「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と弟子たちの背信を強く描きます(マルコ14:50)。しかし、ヨハネは弟子たちが逃げたことを批判せず、むしろ、イエスが逃げるように言われたことを強調します。ヨハネのイエスは「無駄な命を捨てるな、逃げよ、逃げることを通して、証人になるのだ」と言っておられます。この箇所に関連して、説教者・由木康は「歴史は弟子たちが逃げることを通して、教会が形成されて行ったことを伝える」と語ります「徳川時代のキリシタン迫害が残酷を極めた一因は、信徒に逃げよと教えなかったことだ。教職者は殉教の死を遂げても、信徒には逃れる道を与えるべきであった。信徒には、踏み絵を迫られたら、どんどん踏んで生きながらえ、心の中で信仰を持ち続け、信仰の火を絶やすなと教えるべきだった」。

 

2.ペテロの否認

 

・捕縛されたイエスは、大祭司アンナスの邸に連れて行かれました(18:13)。イエスは弟子たちに「逃げよ」と言われました。しかし、ペテロはイエスのことが気がかりで、逃げることが出来ませんでした。彼はイエスの跡を追って、大祭司の屋敷までついて来ますが、門番がいて屋敷に入ることが出来ません。その時、大祭司の知り合いだった弟子の一人(ヨハネ福音書の著者ゼベダイの子ヨハネと推測されます)がペテロを手引きして屋敷に導きます。ペテロは屋敷の中に足を踏み入れました。そのペテロを門番の女中はじっと見つめます。この人の顔は見たことがある、女中はペテロに言います「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」(18:17)。ペテロは「違う」と否定します。

・屋敷の中庭では、僕や下役たちが炭火をおこして火にあたっていました。ペテロもその群れに入って、屋敷の中におられるイエスの様子を探っていました。すると、火にあたっていた大祭司の僕の一人がペテロに言います「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」。ペテロはここでも「違う」と否定します。そこには、イエスを逮捕するためにゲッセマネに行った僕もいました。彼はペテロを見つめて言います「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか」。ペテロは三度目も否認します。その時、鶏が鳴いたとヨハネは記します。

・ペテロの否認は15 -18節、25-27節の二つに分かれて書かれています。短い7節中に、ペテロの名前が10回も出てきます。「ペテロが、ペテロが、あのペテロが・・・主を否認した」とヨハネは書きます。ヨハネは何故、こんなにペテロの名前を繰り返し書くのでしょうか。それはペテロでさえ、いざとなれば主を否定した、「私には関わりない」と切捨てた事実を思い起こして欲しいからです。イエス・キリストを殺したのは直接的にはローマ総督であり、ユダヤ教の祭司長たちです。逮捕の手引きをしたのは、イスカリオテのユダです。しかし、ペテロもまた加担した、ペテロを見守る弟子たちも加担した。「あなたもその場にいれば主を否認したのではないか」とヨハネは私たちに問いかけます。ペテロの弱さは、私たちの弱さなのです。

 

3.ペテロへの赦しと牧会の委託

 

・今日の招詞にヨハネ21:17を選びました。次のような言葉です「三度目にイエスは言われた『ヨハネの子シモン、私を愛しているか』。ペトロは、イエスが三度目も『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます』。イエスは言われた『私の羊を飼いなさい』」。ヨハネ21章は20章で一旦閉じられた福音書がまた書き加えられたものです。その中で著者はガリラヤでの復活のイエスとの顕現物語を記します。

・弟子たちは、自分たちの故郷であるガリラヤに戻ってきました。エルサレムでの復活のイエスとの顕現は、絶望した弟子たちを立ち上がらせる契機にはなりましたが、まだ彼らは半信半疑です。自分たちが見たのは幻ではなかったのか、本当にイエスは復活されたのだろうか、そのような疑問が次から次に弟子たちの胸中に押し寄せました。「自分たちは何をすればよいのだろう」、彼らは元々ガリラヤの漁師でした。不安な心を静めるために、彼らは再び漁に出ることにしました。その彼らにイエスが現れ、イエスと弟子たちは、パンと魚で共に食事をとります。イエスと共に、パンと魚を分け合って食べた。復活されたイエスと共に「主の晩餐」をいただいた。その記憶が初代教会のクリスチャンたちを支えました。

・食事の後で、イエスはペテロに聞かれます「あなたは私を愛するか」(21:15)。ここで、愛するという言葉に「アガパオー」が用いられています。「アガペー」の動詞形です。イエスはペテロに「私があなたを愛したように、あなたも私を愛するか」と聞かれているのです。それに対してペテロは「私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と答えます。ここでペテロは「フィレオー」と答えています。フィリアの動詞形です。「私は人間の限界内でしかあなたを愛することは出来ません」とペテロは答えています。ペテロは最後の晩餐の時にイエスに語りました「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。そのペテロに対してイエスは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」(13:38)と告げられました。イエスの言葉通りに、ペテロは三度イエスを否認しました。このイエスを裏切った出来事は、ペテロの心の中に重い罪責として残りました。人間の限界を知ったペテロは、「どんなことがあってもあなたを愛します」と答えることは出来ません。ですから「アガパオー」と問われるイエスに、「フィレオー」としか答えることが出来ません。

・二度目にイエスは問われます「私を愛しているか」。依然として、「アガパオーとして愛するか」と問われています。そのイエスにペテロは「フィレオーとしてしか愛することは出来ません」と答えます。三度目にイエスはたずねられます「私を愛しているか」、ここで「愛する」は、「アガパオー」から「フィレオー」に変えられています。「あなたのできる範囲で愛すれば良い」とイエスが譲歩されました。このイエスのやさしさにペテロは崩れ落ちます「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることをあなたはご存知です」(21:17)。「私が弱さゆえにあなたを裏切ったことをあなたはご存知です」とペテロは罪を認め、告白しています。

・三度、イエスは「私を愛しているか」と問われました。大祭司の屋敷で、怖くなって、三度「イエスを知らない」と言ったペテロ、そのペテロに「私を愛するか」と三度迫られるイエス、ここに裁きがあります。その裁きがペテロを罪の告白と悔い改めへと導きました。罪は罪として裁かれなければいけない、その裁きの上にこそ赦しがあります。イエスは私たちを罰するためではなく生かすために裁かれます。罪は無条件に赦されてはいけない。罪を罪として認める、そこに初めて赦しが成立します。ですからイエスはペテロに言われます「私の羊を飼いなさい」。

・人は挫折を通して神に出会います。挫折し、罪を告白し、悔い改めた者が始めて、神の委託に応えることが出来ます。ですからイエスは悔い改めたペテロにご自分の群れ、教会を委託されました。ここに牧者の要件があります。牧者、現代の牧師の資格は、神学の勉強をした、聖書に精通している、指導力がある、人格的に優れていることではありません。自分の弱さを知り、その弱さを赦された体験を持つ者だけが、牧者として召されます。自分の弱さを知る故に他者の弱さを責めず、赦された故に他者を赦すことが出来るからです。この赦しの上に教会は立てられているのです。

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