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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年10月2日説教(コロサイ1:9-24、福音から離れてはいけない)

投稿日:2016年10月2日 更新日:

2016年10月2日説教(コロサイ1:9-24、福音から離れてはいけない)

 

1.コロサイ教会の問題点

 

・今週から4回にわたって「コロサイの信徒への手紙」を読みます。コロサイはアジア州の州都エフェソから東に170㎞離れたところにあり、そこでは高原が広がり、牧羊がなされ、町は羊毛の採取、染色、取引等で栄えていたと記録されています。先週読みましたフィレモンの手紙の宛先がコロサイ教会であり、その地で奴隷から解放されたオネシモが手紙の持参人として、コロサイに向かうとあります(4:9)。コロサイの町は紀元60年の大地震により消滅し、その後再建されなかったと言われていますので、手紙が書かれたのはフィレモンの手紙から数年後、紀元50年代後半と思われます。コロサイ教会は使徒パウロの協力者エパフロスの宣教によって立てられた教会ですが(1:7)、そのエパフロスは今パウロと共にエフェソにいます(4:12)。

・パウロはなぜコロサイ教会に手紙を書いたのでしょうか。それは福音の教えを根底から覆すグノーシスと呼ばれる新興宗教運動がコロサイ教会にも押し寄せ、教会の教えが曲がり始めていたからです。その新興宗教の内容が2章に記されています「あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません・・・偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません」(2:16-18)。「偽りの謙遜と天使礼拝」、救われるためには「断食や禁欲的な戒律を守らなければいけない。また天使(諸霊)を崇めることも大事だ」と唱える人々が出始めていたようです。人間は無条件の救いを信じることが出来ず、救いには人間側の努力が必要だと考えます。

・現代においても、禁欲しなければ救われないとする人々は「禁酒禁煙」を救いの要件として求めます。しかしこれは日本にキリスト教が伝わった明治時代のアメリカの慣習であり、お酒やたばこは救いとは何の関係も持ちません。救いを自分の力で得ようとする時に、人は人間的な努力をそこに持ち込み、福音が曲がっていくのです。だからパウロは語ります「御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。私たちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(1:13-14)。「キリストの十字架による贖い、この一点だけを見つめよ」とパウロは語ります。

・救いは恵みであり、私たちはこの恵みを神からいただいた、その事の感謝から、応答としての「行為」が生まれます。行為が人を救うのではなく、救われたから行為するのです。だからパウロは語ります「霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように」(1:9-12)。

・その恵みと感謝が信仰・希望・愛を生んでいきます(1:4-5)。信仰によって希望が与えられ、その希望が私たちを愛の行為に導きます。パウロはコロサイの人々に最初の信仰、無条件で与えられる恵みの戻ってほしいと願っています。だからパウロは「今や私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています」(1:24)。と語ります。

 

2.御子を通して示された神の恵みをただ受けなさい

 

・神は御子を通して、恵みを示されたとパウロは語ります。神は見えない故に、御子キリストを通して、私たちは神を知ります。パウロは語ります「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(1:15-17)。

・神はその御子を十字架につけ、その血により私たちを贖われ、その贖いによって死ぬべき私たちが生きるものとされた。十字架と復活の中に、神の愛は十全に示されているとパウロは語ります。「御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(1:18-20)。

・この和解によって、闇の中にいた私たちが光の中を歩む事を赦され、私たちは教会に集められ、教会が神の国を先取りするものとして示された。だから、「この福音から離れてはいけない」とパウロは語ります。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、傷のない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(1:21-23)。

 

3.キリストから離れるな

 

・今日の招詞にコロサイ2:20-21を選びました。次のような言葉です「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか」。コロサイにおける異端は、「救われるためにはキリストの贖いだけでは十分ではなく、断食や苦行や禁欲的な戒律を守ることが必要だ」と主張していました。宗教的苦行に没頭し、そこでの自己の体験を絶対化して誇る者は、「世を支配する霊に従う者だ」とパウロは語ります。断食や苦行は人の宗教心を満足させますが、神から見れば何の価値もないと語られます。人間の罪は苦行や禁欲によって克服されるほどの生易しいものではない。だからキリストは死ななければならなかった。そして人は洗礼を受けてキリストと共に葬られる(死ぬ)ことを通して、自然界の諸力=ストイケイア、悪魔的霊力、あるいは罪から自由になるとパウロは語ります。

・聖書でいう罪=ハマルテイアとは、「的から外れる」という意味です。的から外れる、神という目標なしに生きるという意味です。神なき世界では、人間は人間しか見えません。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨みます(=恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していきます。神なき世界では、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界です。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケイア)が働いていると見るのです。

・その霊力が世の権力と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持ちます。私たちは広島、長崎を通して、核兵器が悪魔の兵器であることを知ったのに、それを廃絶することが出来ません。「核兵器は抑止力として必要だ」と考える人々が多いからです。私たちは福島原発事故を契機に原子力発電から生まれる放射性廃棄物を処理する能力が人間にはないことを知りました。無毒化するのに10万年もかかり、拡散すれば多くの被害が出ることを知っている。それにも関わらず、原発の再稼働が当然のように進められ、新しい廃棄物が生み出されています。現代の私たちは悪的諸霊=ストイケイアから自由になっていないのです。神無き世界では、人間は、罪―死―罪という悪循環を断ち切ることが出来ず、戦争を繰り返し、核兵器を保持し、原発稼働を止めることさえ出来ません。この悪的霊力とはサタンや悪魔の働きというよりも、人間の悪あるいは罪の総合がそこに働いているという意味です。

・先日、日本における自殺未遂者が年間53万人に上ると発表されました(日本財団推計)。内訳では女性が多く、年代別では20代、30代と若い世代が多く、原因は「離婚」「事業不振」「失恋」「失業」「家庭内暴力」「家族の不和」「子育ての悩み」等とされています。心理学では「有意味感」(自己肯定感)が高いと、「困難は自分への挑戦で、これらに立ち向かっていくのに意味がある」と考え、前向きに対処できるが、有意味感が持てないと、生きる力が萎えると教えます。調査を担当した河合薫氏は語ります「人間は、他人の評価なんか気にしないと思う一方で、他人に認めて欲しいと願う。放っておいて欲しいと思う一方で、自分の存在に気付いてほしいと願う。私たちは他者のまなざしを通してでしか、自分に確信が持てない。あなたは大切だという価値あるメッセージを他者から繰り返し受けることが、生きる力をもたらす」。人はだれかを愛し、誰かを信じないでは生きていけない存在です。その愛や真実を人から奪い去り、生きる力を失わせる悪魔的霊力がこの世に働いているとしか思えません。

・現代の行動規範は快・不快原則(あるいは損得原則)です。損得原則の中では他者関係は希薄化し、それが個人の生きる力を削いでいるのです。教会はこの悪を克服する使信を十字架に見ます。神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任された。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見た。しかし同時に、神はイエスを死から起こすことを通して、悪(罪)を放置することを許されない意思を示された。ここに福音の力がある、だから「キリストの十字架を見上げることによって、この世の悪的霊力から解放され、信仰・希望・愛の世界に生きる」とパウロは語っているのです。

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