2016年1月3日説教(ヨハネ2:1-12、清めの水が祝福のぶどう酒へ)
1.水がぶどう酒に変えられた
・新年礼拝の今日、私たちはヨハネ2章「カナの婚礼」の記事を読みます。ガリラヤに戻られたイエスが郷里での結婚式に出られた時の出来事です。村で婚礼の祝いがあり、イエスの母マリアは手伝いに行っていました。そこにはイエスの兄弟たちもいますので、(2:12)、恐らくは親戚の家の婚礼であったのでしょう。だから、マリアは宴席の料理や飲み物について気を配っています。当時の人々の生活は貧しく、普段はパンと水の質素な食事でした。だから、婚礼の宴は村中の楽しみの時であり、人々は飲みかつ食べるために集まってきました。その時、宴席に欠かせないぶどう酒が足らなくなります。予想以上の人々が集まったのでしょうか。これは宴を主催する家族にとっては、一大事でした。マリアも責任の一端を持つ者として困惑し、同じ席にいた長男のイエスに相談します「ぶどう酒がなくなりました。どうしたらよいだろう」と。
・それに対してイエスは答えられます「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません」(2:4)。非常に冷たい返事です。マリアは母と子の自然的人情によってイエスの気持ちを動かそうとしますが、イエスはこれを拒否されます。ヨハネ福音書では「私の時」とは「栄光の時」であり、十字架の時を指します。「まだ十字架の時ではない」とイエスは言われました。しかしマリアはイエスが何かをしてくれることを信じて、召使いたちに言います「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」(2:5)。熱心な懇願は神の子の心を動かします。
・その家には大きな6つの水がめがありました。それぞれに2ないし3メトレステも入る水がめです。1メトレステは39リッター、3メトレステは100リッターです。100リッターも入る大きな水がめが、6つも置いてあったのです。イエスは召使たちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われ、水が満たされたのを見ると「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召使たちが水がめから水を汲んで世話役の所に運んで行ったところ、それは最上のぶどう酒に変わっていました。世話役は花婿を呼んで言います「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)。水がぶどう酒に変わる「カナの奇跡」が起こったのです。
・この物語の中心は「水がぶどう酒」に変えられたことではありません。それなら、ただの魔術にすぎません。物語の中心は、その水が「飲むための水」ではなく、「清めの水」であったことです。「清め」はユダヤ人にとって大事なことでした。マルコには「ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」(マルコ7:3-4)とあります。ここに律法に縛られた当時のユダヤ人の生活を、私たちは見ます。
2.もう清めの水はいらない
・人々は身を清く守るために、汚れから遠ざかろうとしました。外に出ると汚れた人と道ですれ違ったかも知れないから、手足を洗い清めた後でないと家に入れない。さらには、食べることを禁止された汚れた食べ物を気づかないで食べたかも知れない。彼らは、いつ汚れを受けたかもしれないとして、こわごわとした生活していたのです。だから、毎日の生活の中で大量の清めの水を必要とし、大きな水がめがいくつもなければ、安心して暮らしていけない毎日であったのです。日本人も身を清めるために水を用います。汚れは外から来ると思うからです。
・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人たちに言われました「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚す」(マタイ15:10-11)。汚れは水でいくら洗っても、清くはならない。汚れを気にして、家に何百リッターの清めの水がめを置いても問題は解決しない。何故ならば、汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからです。
・その汚れを、聖書は「罪」と呼びます。私たちの中にこの罪があり、その罪が人を傷つけ、自分も傷つけられているのです。その罪は自我、自分のことしか考えられない人間の業です。この自我という地獄から解放されない限り、平安はありません。その私たちの罪からの解放のために、イエスは十字架で死なれたと聖書は教えます。ぶどう酒はイエスが十字架で流された血を象徴しています。ルカ福音書のイエスは語られます「(ぶどう酒の入った)この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。イエスが清めの水をぶどう酒に変えて下さり、そのことによって、人々が内心の罪(汚れ)から解放される道が生まれたとヨハネは語っているのです。
3.受難の象徴としてのカナの奇跡
・ヨハネ福音書はイエスの活動の最初に、「カナの婚礼」と、「イエスの宮清め」の記事を持ってきます。「カナの婚礼」はヨハネ独自の記事ですが、そのまとめとしてヨハネは書きます「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)。カナでイエスは水をぶどう酒に変えられますが、この水は「清めに用いる」水でした。祭儀のための水が、イエスによって十字架の血に変えられて、もう祭儀の水は不要になったとヨハネは示唆しています。弟子たちはこの時にはそれがわからなかった。しかし「イエスの十字架と復活を経験して、その意味が分かった、だから信じた」とヨハネは記します。
・今日の招詞にヨハネ2:19を選びました。次のような言葉です「イエスは答えて言われた『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』」。カナの婚礼に続いて、ヨハネはイエスの「宮清め」を書きます。他の福音書では、受難週の最後の出来事として記されている行為が、ヨハネでは最初に来ます。イエスは神殿から犠牲の動物を売り買いする動物商や両替商を追い出され、怒った祭司たちはイエスに迫って言います「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」(2:18)。それに対して、イエスが答えられたのが招詞の言葉「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」です。口語訳では「私は三日の内にそれを起こすだろう」と訳します。原語「エゲイロウ」は、「起きる、目を覚ます」という意味です。そしてヨハネ福音書では、この言葉は復活を意味します。イエスがここで言われていることは、「あなたがたは私を殺すだろう。しかし父なる神は私を三日のうちに起こして下さる」という意味です。「あなた方は罪の贖いのために動物犠牲が必要だとして祭儀制度を造り、神殿維持のために必要だとして神殿税を集めている。しかし私が人々のための贖いとして死ぬのだから、もう犠牲は不要であり、神殿も不要だ」として、イエスは神殿崩壊を預言されます。そして弟子たちは「イエスが死者の中から復活された時、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(2:22)。
・ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年頃ですが、当時の教会はユダヤ教からの迫害に苦しんでいました。その教会にヨハネは、「祭儀と律法を中心とするユダヤ教は役割を終えた。イエスの受難と復活を通してイエスが生きた神殿となられた」ことを伝えたくて、福音書の初めに、カナの婚礼と宮清めの記事を持ってきたのです。カナの奇跡、宮きめの出来事の双方がやがて来る十字架を指し示す「しるし」として、用いられています。イエスが自ら血を流されることを通して、人を縛る律法や祭儀から私たちを解放して下さった、これが福音=良い知らせなのだとヨハネは強調しています。
・このことが私たちに教えますことは、もう律法や祭儀の世界に逆戻りしてはいけないということです。イエスに従うとは、道徳に縛られた窮屈な生き方、「これをしてはいけない」、「あれをしてはいけない」という生き方ではありません。イエスが私たちに教えてくださったのは、喜びと祝福の中に生きることです。だから清めの水をぶどう酒に変え、それを楽しめと言われます。日本の教会には、禁酒禁煙という伝統がありますが、それは聖書の教えではありません。聖書が私たちに語るのは、あふれるばかりのぶどう酒は「神の祝福のしるし」であるということです(詩編104:15「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える」)。そのことを忘れて、飲酒のマイナス面だけを見つめて、これを禁止するのが律法です。人間は信仰の本質でない事柄をいつの間にか本質に変えてしまいます。ここに律法主義の怖さがあります。禁欲と言う犠牲を捧げることを止めて、喜びをもって礼拝するようにヨハネ福音書は教えます。
・マザー・テレサは来日時に語りました「日本は物質的には豊かだが、心が貧しい。この世で最も貧しいことは、飢えて食べられないことではなく、社会から捨てられ、自分なんかこの世に生まれてくる必要がない人間であると思うことです。その孤独感こそが、最大の貧困なのです。日本にもたくさんの貧しい人たちがいます。それは、自分なんか必要とされていないと思っている人たちのことです。」(『マザー・テレサの真実』(PHP文庫)より)。心の貧困は、物質の貧困よりも深刻です。その人々のためにイエスは死なれたとマザー・テレサは語ります「あたかも人間となったことだけでは不十分であるかのように、神の偉大な愛を示すためにイエスは十字架上で死にました。イエスはあなたのため、私のため、ハンセン病の患者のため、空腹で死にかけている人のため、裸で道に横たわっている人のために、十字架上で死にました。イエスが私たち一人ひとりを愛したように、私たちも互いを愛し合うことが求められています」(マザー・テレサの言葉、片柳神父のブログから)。
・現代日本は自己肯定ができにくい社会であり、人々は「社会から捨てられ、自分なんかこの世に生まれてくる必要がない人間ではないか」との不安の中に置かれ、その中で、自殺し、うつ病になり、不登校や引きこもり者が増え、生活困窮による育児放棄、幼児虐待が生じています。人々は人間としての尊厳を求めて、救いを求めて、あえいでいます。その人々のために、イエスは十字架で死なれました。そのイエスの死を継承していく私たちには何が出来るのでしょうか。「生まれてきてよかった、この教会でイエスと出会えた」という人をたった一人でもよいから見出していく、それをこの1年の私たちの目標にしたいと願います。