2015年8月9日説教(コヘレト4:1-12、人生の不条理の中で)
1.人生の不条理にコヘレトはどう対処するのか
・コヘレト書を読み続けています。コヘレトはこの世に悪があること、そのことにより多くの人が苦しんでいる事実を見つめます。先週学んだ3章でも彼は語りました「太陽の下、更に私は見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを」(3:16)。この世の現実は不条理に満ちています。正義を行うべき司法の場にも、行政の場にも悪があります。4章はこの3章に続いて、世の悪に対してどう対処すべきかについてコヘレトの言葉です。彼は語ります「私は改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」(4:1)。イスラエルの伝統神学は、「神は弱者が虐げられたままには放置されない」と説きます(箴言22:22-23他)。しかし世の現実は異なります。「弱者は虐げられるだけで誰も救おうとはしない、そうではないか」とコヘレトは語ります。だから彼は「死んだ人の方が幸いだ。彼らはもうこれ以上、悪を見る必要はないのだから」(4:2)、更には「いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(4:3)と語ります。
・アウシュビッツで250万人のユダヤ人が殺された時、誰も助ける人はいませんでした。1994年ルワンダで100万人以上のツチ族が大量殺戮されましたが、駐留していた国連平和維持部隊は騒乱に介入せず、虐殺を見殺しにしています。現在のシリヤやガザで起きている大量殺戮にも誰も介入しません。「神はどこだ。どこにおられるのだ」と叫ばざるを得ない現実があります。コヘレトはその現実の中で嘆息します。彼は搾取され、虐待されている人々の涙を知っていますが何も行動しません。私たちも同じです。批判はしますが、行動しない。「何をしても同じだ、空しい」というニヒリズムが、彼や私たちを支配しているからです。
・不条理は起こり続け、虐げられて泣く人が絶えることはありません。その中で最大の悪は他人の不幸に無関心であることです。日本人の無関心の一つが難民問題です。昨年、日本では5千人の難民申請に対して認定は11人でした。アメリカやイギリスが数千人の難民を毎年受け入れるのに、日本は難民の流入を制限し、その上法務省は難民認定基準を厳格化する方向で法改正を図っており、国連難民高等弁務官事務所や日本弁護士連合会等は危機感を強めています。しかし国民の間からは批判の声は挙がっていません。自分たちの問題では無いからです。聖書では難民は寄留者として登場します。「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であった」(出エジプト記22:20)。私たちの江戸川区にはフィリッピンやブラジル、インド、中国等から来た大勢の外国人がいます。都内で二番目に外国人居住者が多い場所です。寄留者であふれています。私たちが難民問題に無関心であることは聖書に不誠実であるばかりでなく、地域に対しても不誠実です。難民問題は私たちの教会が取り組むべき課題ではないかと思います。何が出来るのか、何をすべきなのかを、考える時です。
- 孤独な人生は空である
・4節からは「労働」の問題にコヘレトは言及します。私たちは何故働くのか、ある人は「自分と家族が食べていくため」と答え、別な人は「仕事を通して社会に貢献したい」と答え、更には「何かを創造するために働く」と答える人もいるでしょう。コヘレトは「人間が労働するのは他人よりも優位に立ちたいからだ」と語ります。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」(4:4)。コヘレトは労働それ自体を悪としているのではありません。しかし労働を変質させてしまう悪用を批判しています。人より偉くなりたい、人よりいい生活をしたいという欲望が私たちを突き動かしています。その結果、労働が競争の下に置かれ、労働が喜びから苦難になって行きます。そして競争に負けた者は社会の中で居場所を失います。勝ち組、負け組という言葉がそれを象徴しています。
・天地創造を記す創世記は語ります「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(2:15)。この耕す=アーバドは、「仕える」という意味を持ちます。創造前、地に仕える人がいなかった時、大地は何も生まなかった。しかし、人が創られ、地を耕して行くと、地は収穫をもたらします。耕す(cultivate)時、そこに文化(culture)が生まれていく。ここに聖書の労働観があります。人は働くために創造された、使命感をもって働く時こそ、人は本当に生きる存在となるとの主張です。創世記では、その人が罪を犯す事により、地が呪われ、労働は労苦になったと語ります(創世記3:18-19)。本当の労働は神から与えられた地を耕すことであり、人間同士が競争して収穫を取り合ってはいけないのです。
・コヘレトは語ります「愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ」(4:5-6)。「愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす」、怠惰であることは論外です。しかし「両手を満たして、なお労苦する」、張り詰めた状態で働き続けるのもまた悪だとコヘレトは指摘します。日本では長時間労働による過労死が繰り返し起きています。過労死の多くは過労自殺です。過労により心身共に追い詰められて破滅していく現実があります。そのため、聖書は休息の必要性を繰り返し語ります。それが安息日規定です。出エジプト記は伝えます「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」(23:12)。「元気を回付するために仕事を休め」、「片手を満たして、憩いを得よ」と聖書は語るのです。
・私たちが働く真の目的は、労働の成果を家族と分かち合い、人生を楽しむためです。しかし、「蓄えた富を共に楽しむ妻や子や友のいない人生は何と空しいことか」とコヘレトは語ります。「私は改めて、太陽の下に空しいことがあるのを見た。一人の男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで誰のために労苦するのか』と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ」(4:7-8)。
・神は「人が一人でいるのは良くない」と言われて同伴者を造られました(創世記2:18)。コヘレトも「一人よりも二人の方が良い」と語ります。「一人よりも二人が良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、一人がその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、二人で寝れば暖かいが、一人でどうして暖まれようか。一人が攻められれば、二人でこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」(4:9-12)。現在の日本社会は大家族、核家族を経て、小家族の時代になっています。高齢化社会の進展の中で単身高齢世帯が338万、夫婦高齢世帯447万もあります。その他に母子・父子の少世帯も多い。「三つよりの糸」を持ちにくい、孤独な人が増えているのです。ここに教会の役割があります。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18:20)、地域コミュニティーとしての教会の役割が発揮されるために何を為すべきか、知恵が求められています。
- 不条理にどう対応するのか
・今日の招詞にコヘレト7:20-21を選びました。次のような言葉です。「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる」。この世には不条理があります。不条理には自然災害によるものと人の悪によるものとの双方があります。自然災害は私たちの対応能力を超えますが、人の悪による不条理は私たちに解決を迫ります。第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来ました。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語ります。「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由」内田樹訳)。彼自身も両親や家族をホロコーストで亡くしています。その中での言葉です。
・「成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとる」とレヴィナスは語る。紀元前3世紀のコヘレトは語る。「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる」(コヘレト7:20-21)。今為すべきことを為せ、人が何を言おうと良いではないかとコヘレトは励ます。