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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年12月6日説教(ヨハネ1:1-13、初めに言があった)

投稿日:2015年12月6日 更新日:

2015年12月6日説教(ヨハネ1:1-13、初めに言があった)

 

1.神が人となって来られた

 

・待降節を迎えています。キリストの降誕を待ち望む時です。その私たちに与えられました聖書箇所はヨハネ1:1-13、ヨハネ福音書の最初の言葉(序文)です。ロゴス賛歌と呼ばれるヨハネのクリスマス祝歌です。最初にヨハネは語ります「初めに言(ロゴス)があった。言(ロゴス)は神と共にあった。言(ロゴス)は神であった」(1:1)。この言=ロゴスをキリストと読み替えると意味がはっきりします。「初めにキリストがおられた。キリストは神と共におられた。キリストは神であった」。そして、「言(キリスト)は肉となって私たちの間に宿られた」(1:14)。神が人となって世に来られた、それがクリスマスの出来事であるとヨハネは語ります。ここにはベツレヘムの羊飼いも、三人の博士も、マリアとヨセフも登場しません。ヨハネは、クリスマスとは「神が人となって私たちの所へ来られた」、その一点にあると考えているからです。

・ヨハネ福音書は「イエスは神であった」という前提で書かれ、神だから創造の初めからイエスはおられたという立場をとります。ヨハネはイエスの生涯を「復活」という光の下で見つめています。ヨハネは語ります「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。ヨハネ福音書は12弟子の一人「ゼベダイの子ヨハネ」が語った事柄を、弟子たちが編集してできたと言われています(20:30-31)。ヨハネはイエスに従って町々村々を訪ね、イエスが病気の人を癒し、悪霊につかれた人から悪霊を追放されるのをその目で見ました。またイエスの力ある言葉が多くの貧しい人々を励ますのをその耳で聞きました。このようなしるし(奇跡)は神以外にはできない、この人は神から遣わされたメシアだ、ヨハネはそう信じてイエスに従って行きました。しかしそのイエスがユダヤ教指導者とローマ軍により捕縛され、無残にも十字架で殺されます。ヨハネの失望はいかばかりだったでしょう。しかし死んだイエスが復活され、その復活のイエスに直接出会ったヨハネはイエスの前にひざまずき、告白します「わが主、わが神」(20:28)。ヨハネにとってイエスは地上に来られた神だったのです。

・ヨハネ福音書冒頭は、「初めに=エン・アルケー」と言う言葉で始まります。その時、ヨハネは、創世記の言葉を想起しています。当時、ヨハネが読んでいた聖書は70人訳ギリシア語聖書で、その最初の書である創世記は、「初めに=エン・アルケー」で始まります。「初めに、神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた“光あれ”。こうして、光があった」(創世記1: 1-3)。天地が創造される前、地は混沌であった、何も見えない闇の中にあった。しかし、神が「光あれと言われると光があった」。創世記はバビロン捕囚地で書かれたと言われています。イスラエルは戦争に負けて国が滅ぼされ、住民は捕虜として敵国の首都バビロンに囚われています。彼らの前途は闇でした。しかし彼らが異国の地の礼拝の中で、そこにも自分たちの神が共におられる事を知った時、彼らは闇の中に一筋の光を見出しました。「神が“光あれ”と言われると、光があった」、神は私たちをこの闇から救い出してしてくださる。その信仰が創世記を生みました。「光あれ」という言葉をヨハネも今、聞いています。ヨハネ教会もユダヤ教からの迫害の中にあります。しかし、神はかつて言葉で天地を創造されたように、今、「光を創造された、その方がイエスだ」とヨハネは語っているのです。
・ヨハネは言います「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:4-5)。「暗闇は光を理解しなかった」、神はイエスを光として世に送られたが、闇の中に住む人々はイエスが神から来られたことを認めなかった。そしてイエスを殺し、今はヨハネ教会の人々を迫害しています。何故、世の人々はキリスト・イエスを殺したのみならず、私たちをも迫害するのか。何故、「イエスこそキリスト(救い主)である」と信仰告白することによって、異端とされ、殺されねばならないのか。「暗闇は光を理解しなかった」、この言葉の中に厳しい迫害の中にあるヨハネ教会の叫びがあります。

 

2.神の子となるとはなにか

・ヨハネは続けます「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:10-11)。イエスを十字架につけたのは、ユダヤ教の祭司や律法学者でした。祭司たちは「神殿に礼拝し、十分の一の献げ物をすれば救われる」と人々に教えました。しかし、その献げ物は祭司が生活を立てるための物になり、彼らは宗教貴族として贅沢三昧の暮らをしていました。祭司は神のためではなく、自分のための献げ物を人々に要求していたのです。律法学者たちは神の言葉である律法を守るように教えましたが、自らは「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好」みました(マタイ23:6-7)。律法学者もまた仕えられることを求めていたのです。祭司や律法学者たちは、自分たちは神に仕え、光の中にあると思っていましが、実は彼ら自身は人々を搾取し、闇の中に追いやっていた。そのことをイエスが批判されると、彼らはイエスを憎み、殺しました。
・「世は言を認めなかった」、「民は光を受入れなかった」、ヨハネの教会は行き場のない苦難の中にいます。しかし、彼らは希望をなくしてはいません。多くの人々はイエスを拒絶しましたが、小数の者は信じました。そして「言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:12)。神の子になるとは、命の根源である神によって生かされるという意味です。その人々は「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(1:13)。この世的には家柄の良い人も悪い人もおり、能力の高い人もそうでない人もいます。しかし神の前ではそのような差異は問題にもならない。全ての人が神の祝福を受けてこの世に生を受けた。身体や心に障害を持って生まれた人も、社会から差別されていた人も、また神の祝福の中にあります。イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われた時、この暗闇に住む人々に光が来たのだとヨハネは語っています。

 

3.神の子の受肉を喜ぶ

 

・今日の招詞にマタイ25:35-36を選びました。次のような言葉です「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」。イエスが最後の審判について語られた言葉です。イエスは言われます「人は最後に神の前に出る。そして正しい人は右に、そうでない人は左に分けられる」。正しい人とは招詞にあるような生き方をした人、「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、裸の人に着物を与え、泣く人を訪問する」人だとイエスは言われました。世はそのようなイエスの生き方を嘲笑しました。世はイエスを受け入れなかった。ヨハネが語るように「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(1:11)。しかし、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1:12)。キリスト者になるとは言(イエス)を受け入れ、イエスに従って歩むことです。

・バーバラ・テイラーは「片隅のメシア」という説教をしました。彼女は述べます「主イエスは片隅に追いやられていた人々の医者としてふるまわれた。彼は重い皮膚病を患う人、悪霊に取りつかれた人、出血の止まらない女性、そしてローマ兵の部下さえも癒した。イエスの受難と復活の後、イエスに従う人々が出てきた。彼らはポタリ、ポタリと絶え間なくしたたり落ちてくる、憐れみの一滴となって生きた」。彼女は続けます「ホンジュラスで起きた大洪水の直後、アメリカの救急救命士が二人、泥の中から遺体を引き上げるのを手伝うため、自分たちの仕事を辞めて車を走らせた。中西部のある農家は隣の州の原住民特別区が干ばつで牧草の収穫ができないというニュースを聞いて、自分の畑の牧草をトラックに積み込み、夏中かかって何トンもの牧草を無償で差し出した。ある女性はロシアの孤児院に養子に迎えに訪問した時、帰り際に他の子どもたちからの『さよならママ、さよならパパ』という言葉を忘れられず、帰国後に『まだ見つかっていない親たち』というNPOを立ち上げた」。彼女は言う「これらは小さなニュースです。一度にほんのわずかな人たちだけが救われただけです。しかし、このしずくの一滴、一滴が、メシアが私たちに示されたやり方なのです」。イエスが片隅のメシアとして生きられた。

・その片隅のメシアを歌ったクリスマス・ソングが、「「キリストは明日おいでになる」という歌です(讃美歌21、244番)。こんな歌詞です。「(1番)キリストは明日おいでになる。この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても、昨日こられた御子のように」。ヨハネは語りました「光は暗闇の中で輝いている」(1:5a)。たとえ「この世が闇に閉ざされても、客間はあふれ余地なくても」、光であるキリストはおいでになる。「(2番」この世は今も改まらず、御子はこられる厩の中。十字架に主をくぎづけにし、墓におさめた時のままだ」。私たちを含めた「この世」は何も「改まらない」。「暗闇は光を理解しなかった」(1:5b)。しかし、そうした私たちの振る舞いのすべてを越えて、「キリストは明日おいでになる」。歌は続きます「明日を持たない人々にも、生命のパンがあたえられる。そのみからだが示すものは、また来たりたもう復活の主だ。み子キリストはいつの世にも、みどり子としておいでになる。その約束を果たすために、私たちをも用いられる」。キリストは片隅のメシアとして生きられた、そして彼に従う私たちが片隅のキリスト者として生きることにより、御子の約束が私たちを通して実現すると讃美されます。私たちを必要とする人こそ、私たちの隣人なのだとイエスも語られました。

・クリスマスは光の祭典です。私たちはろうそくの光を灯してそのことを象徴します。教会が12月25日をイエスの誕生日として祝うようになったのは、4世紀頃にローマで行われていた冬至の祭りの日を誕生日に制定してからです。ローマ暦の冬至は12月25日、冬至は夜が一番長い時、闇が一番深まる時です。しかしまた、それ以上に闇は深まらず次第に光が長くなる時です。人々はこの冬至の日こそ、光である救い主の誕生日に最もふさわしいと考えるようになりました。「光は暗闇の中で輝いている」(1:5)。私たちは暗闇の中でこの言葉を聞き、自分たちもその光を反射する者、片隅で働くキリスト者でありたいと願います。それが私たちのクリスマスです。

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