江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年1月4日説教(第二コリント4:1-15、この土の器に)

投稿日:2015年1月4日 更新日:

1.パウロの困難

・新しい年を迎えました。2015年はどのような年になるのでしょうか。あるいはどのような年にしていただくのでしょうか。私たちは今年もパウロの福音の言葉に耳を傾けていきたいと思います。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道のために奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛おしいキリスト者の群れです。しかしパウロの伝道活動を喜ばないエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロは私たちからの推薦状を持った使徒ではない、またパウロの伝える福音は私たちが承認していない異端だ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。
・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなったのです。何故聞いてくれないのか、何故わかってくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心にゆだねます」(4:1-2)。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちは「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている。だから伝道がうまくいかないのだ」と批判したようです。それに対してパウロは反論します「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。
・どのような命の言葉さえも心を開かれない人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは伝え続けます。彼は語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人々を変えうる」と信じるゆえに伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は光の中に復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられたのです。使命を与えられた人間は決して落胆しません。

2.この土の器に

・今のパウロは、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロに注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私を見るのではなく、私が持ち運んでいる福音を見よ」と語ります。それが7節の言葉です「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。パウロはここで訴えています「私はみすぼらしい土の器かもしれない。あなた方はその私を見て、土の器には何の価値も無いというだろう。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現されるのだ。私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ないだろう。だから私は自分が土の器であることを恥じない」と。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。現在のパウロは失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者のような惨めな状態なのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっていると彼は言うのです。コリントの人々はパウロを神の祝福を受けていない失敗者のように見ていたことでしょう。まるで廃棄される土器のように見棄てていたのでしょう。しかしキリストも十字架上で廃棄されました。イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。だから語ります「こうして、私たちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」(4:12)。パウロは見棄てられても起き上がります。何故なら、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。このイエスの十字架と復活こそがパウロの命の源泉であるのです。

3.希望の福音

・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器に入れて持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死に渡された命、肉体は日々衰えていきます。人は年を取れば体力は低下し、また気力も低下していきます。人は土で作られた故に、死ねば土に帰るのです(創世記2:7)。しかし、「内なる人」、キリストと共にある生命は衰えることがありません。神によって生かされている命は、年をとってもなお生命力を増すのです。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは次のように語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。そしてキリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。それを実際に体験するために、私たちは洗礼を受けるのです。そしてこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。つまり「内なる人」をいただくのです。
・OECDの「幸福度調査」(Better Life Index,2012年)によれば、日本人は経済的に豊かなのに幸福度は低いという結果が出ています(日本の幸福度は21位/36カ国)。これまでは経済的豊かさこそが国民を幸せにすると考えられていましたが、どうやら違うようです。社会学者の吉中季子氏は「幸福度と社会的孤立度とは強い相関を持つ」と考えています(名寄市立大学社会福祉研究紀要)。社会的孤立度を図る指標「自分以外の人と一緒に過ごす時間が殆ど無い」という人が日本では15.3%もいて、これはOECD諸国平均(6.7%)の二倍以上、この孤独感が日本人の幸福度を大きく低下させているようです。日本では、かつてあった地域共同体や会社共同体が崩れ、また家族共同体も崩れ始め、人と人の絆が低下しています。都道府県別調査では福井、富山、石川等比較的に地域共同体が強い地方が幸福度上位を占め、東京や大阪の大都市圏はかなり低くなります。人は一人では行きていけない、誰かのサポート無しには生きていけない、そのサポートが極端に低くなり始めているのが現在の日本です。
・私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。そのイエスの力は教会の交わりを通して与えられます。だからパウロはコリント教会が如何に頑なでもコリントから離れないのです。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。

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