1.献金についてのパウロの手紙
・第二コリント書を読み続けています。エルサレムで生まれた福音は、パウロたちの働きにより、アジアやヨーロッパに伝えられ、紀元55年頃にはローマ帝国内のあちらこちらに教会が立てられました。やがて、それらの異邦人教会が母教会のユダヤ人教会より大きい勢力になって行きます。このことが問題を発生させました。母教会であるエルサレム教会は伝統的な律法(割礼や食物の規制)を守らない異邦人キリスト者を、神の民としては相応しくないと考え始め、他方、異邦人教会は律法や規制を押し付けてくるエルサレム教会を保守的で頑迷な教会と反発するようになります。諸教会の間の対立が次第に強くなっていきました。そのため、パウロは経済的に貧しいエルサレム教会を支援するための献金を異邦人教会から募り、それを捧げることによって、両者の和解と一致が成ることを願いました。そして異邦人諸教会へ献金の依頼を始めます。
・フィリピやテサロニケ等のマケドニア諸教会は豊かではありませんでしたが、パウロの要請を受けて、「力に応じて、また力以上に」捧げものをしました。しかし、裕福なコリント教会は非協力的でした。そのため、パウロは数回にわたり、コリント教会へ献金要請の手紙を書き、その手紙の一部が、第二コリント8-9章として残されています。今日は、そういう時代背景の中で書かれたコリント第二の手紙を基に、「献金」の問題を考えてみたいと思います。
・献金は微妙な問題です。現代の教会でも、牧師が献金を講壇から奨励するのは善くないとの考え方があります。お金の問題は卑しい事柄であり、信仰の出来事ではないとの考え方が根強いのです。金銭に対しては、当時も同じ状況にありました。コリント教会はパウロからの献金要請に反発していたようです。一つにはパウロに対する個人批判で、「パウロは自分の懐を暖めるために献金に熱心なのだ」と陰口を叩く者さえいたようです(11:7-8)。それ以上に、「何故自分たちが海の向こうのエルサレム教会を助けなければいけないのか。エルサレム教会には世話になっていないし、捧げる余裕もない」と言う反発です。
・そのコリントの人々にパウロは書きます「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです」(8:1-2)。マケドニア諸教会は迫害の中にあり、経済的には貧しかったようです。パウロは彼らの貧しさを知っていたので、あえて献金を勧めませんでしたが、諸教会は自発的に献金を申し出、力以上のものを献金してくれたようです。パウロは語ります「私は証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした。また、私たちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそって私たちにも自分自身を献げたのです」(8:3-5)。パウロはこのマケドニア諸教会のように、コリントのあなた方もエルサレム教会に対する献金に真剣に取り組んでほしいと記します「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、私たちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(8:7)。
・しかしパウロはコリント教会の献金に対する冷めた考え方を熟知していますから、できるだけ押し付けにならないように配慮しています「私は命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです」(8:8)。パウロは献金を経済的な事柄とはとらえていません。献金は「与えられる恵み」の出来事だと考えています。だから語ります「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(8:9)。キリストは私たちのために死んで下さった。キリストを通して神の子とさせていただいた私たちが、どうして貧しい兄弟を見て見ぬ振りが出来ようか。「主が貧しくなって下さったのだから、私たちも貧しくなろうではないか」とパウロは語ります。
・コリントは大都市であり、豊かな教会員も多かったようですから、お金を出そうと思えば相応に出せたでしょう。しかし、パウロは語ります「心から願って捧げなさい。そうすれば、神は受け容れて下さる」(8:10-12)。「今、あなたがたがエルサレム教会のために苦労することに意味がある。あなたがたの現在のゆとりがエルサレム教会の欠乏を補えば、将来はエレサレム教会のゆとりがあなたがたを助けるようになるだろう」(8:14)。
2.献金とは何だろうか
・そしてパウロは出エジプト記16:18の記事を引きながら、コリントの信徒たちに語りかけます。「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」(8:16)。モーセによってエジプトから解放された民は荒野に導かれました。荒野には満足に食べるものはなく、民はつぶやき始めます「エジプトでは肉の鍋の傍らに座り、飽きるほどパンを食べていた。ここには何も無い。エジプトの方が良かった」。その民に対し、主は天からマナを降らせて、養われます。モーセは民に言います「おのおの必要なだけを集めよ。明日はまた主が下さる」。ある者は多く、ある者は少なく集めたが、計ってみると「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」。しかし、ある者は欲を出して、明日の分まで集めた。翌朝になると「多く集めたマナには虫がつき、臭くなった」(出エジプト16:1-29)。
・パウロは語ります「必要なものは主が与えて下さる。今、あなたがたが生きるために必要なもの以上をいただいていれば、それを主に捧げなさい。多く持つことにより、私たちの心の中に惜しむ気持ちが生まれる。必要以上のゆとりは腐ったマナになりかねないのだ。必要以上に持っているものを、持たない人と分かち合う行為が献金なのだ。キリストは私たちを愛するあまり、貧しくなって下さった。だから、私たちもキリストの相続人として隣人のために貧しくなるのだ」。
3.恵みに富む
・今日の招詞に、第一コリント12:26を選びました。次のような言葉です「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。教会はキリストの体です。ここで言う教会とは、一つ一つの地域教会を超えて存在する「見えざる公同の教会」です。一つ一つの地域教会が集まってキリストの体を形成します。ですから一つの教会が傷めば、他の教会も共に苦しみます。私たちの所属する日本バプテスト連盟には325の教会・伝道所がありますが、そのうち礼拝参加者が10名に満たない教会・伝道所が26もあります。多くは地方教会です。礼拝参加者10名以下の教会の多くは経常献金300万円以下であり、経済的に牧師招聘が難しく、牧師のいない教会は消滅危険性が高いとされます。バプテスト連盟ではこのような小教会に様々な財政支援をしています。牧師給補助、会堂借入補助、無牧師教会礼拝支援費、教会施設整備補助、研修会参加費補助等の支援です。その財源は諸教会から捧げられる協力伝道献金です。
・私たちの教会の場合、建築献金を含めた献金総額は約1,100万円ですが、そのうち1,00万円は借入金の返済や牧師給等の教会維持のために用いられ、外部に献金しているお金は100万円です。そのうち聖書協会やギデオン協会等の諸団体への献金が50万円であり、諸教会を支援する原資になる協力伝道献金は50万円です。これは連盟の定める協力伝道献金基準額に沿うものです。ただ、今回、説教準備をしていましたら、次のような言葉に接しました「もしコリントのキリスト者がエルサレムのキリスト者について心配をしないのならば、コリントにはもはや教会は存在しなくなる。共に集まって礼拝する集団は存在し続けるかもしれないが、そこにはキリストはいない」(アーネスト・ベスト「現代聖書注解・第二コリント」)。私たちの教会もキリストの恵みにもっと応えるべきではないかと思わされました。13年前は礼拝出席15名、献金総額400万円の教会が、今はこれほど豊かにしていただいたのですから。
・「地方教会の疲弊に目をつぶるような教会にはキリストはいない」、厳しい言葉ですが、その通りだと思います。首都圏の教会は地方から多くの人々を受け入れています。私たちは地方教会を支援する責務があります。そのため、現在50万円を拠出している協力伝道献金を増額したらどうか検討をすべき時に来たのかもしれません。もちろん、執事会・教会総会での議論を経た上での決定になりますが、その結果、例えば年間10万円ずつ増やして行き、将来は協力伝道献金を100万円にするという希望を持てれば素晴らしいと思います。他方、私たちの教会は建築借入金返済のために、当面は年間300万円を必要としています。借入金を返済しているのに隣人教会支援を増やす余裕はないという考え方も成立します。しかし注解者A.ベスト氏は語ります「捧げ物の最終基準は捧げた後にどれだけ残るかという計算の結果によるものではない。唯一の基準はキリストの愛である」。「捧げることが出来るのは恵みである、キリストの恵みにあなたがたはどう対応するのか」、今後議論を深めていきたい問題です。