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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年12月27日説教(ヨハネ1:35-51、イエスの弟子になる)

投稿日:2015年12月27日 更新日:

2015年12月27日説教(ヨハネ1:35-51、イエスの弟子になる)

 

1.弟子の召命

・クリスマスも終わり、年内最終礼拝の時を迎えています。私たちはヨハネ福音書を読み続けます。今日は、ヨハネ1章後半を通して、キリストの弟子になるとはどういうことか、考えてみたいと思います。洗礼者ヨハネがユダの荒野で宣教を始めた時、ユダヤ全土から多くの人々がヨハネの許に集まりました。ローマの植民地支配に苦しむ人々は、聖書に預言された救世主(メシア)が来られて、イスラエルが救われることを求めていました。だから、「世の終わりは近い、メシアが来られる」との洗礼者ヨハネの呼びかけに人々は共感し、もしかしたらこの人こそメシアかも知れないとの期待を込めて、集まったのです。アンデレと無名の弟子(おそらくは福音書の著者ゼベダイの子ヨハネ)もまた、ガリラヤからユダの荒野に来ていました。その二人に、洗礼者は「私よりも優れた方がおられる。この方こそ神の子羊だ」として、イエスを指し示しました(1:36)。

・二人の弟子はイエスの後をついていきます。イエスは二人を見て、「何を求めているのか」と言われました。二人は聞きます「ラビ、どこにお泊りですか」(1:38)。二人はイエスの泊まっておられた所に行き、一晩中イエスの話を聞き、この人こそメシアだと確信しました。翌朝、アンデレは兄弟シモンの所に行き、告げます「私たちはメシアに出会った」(1:41)。そして、シモンをイエスのところに連れて行きました。イエスはシモンを見つめて言われました「あなたをケファ(岩)と呼ぶことにする」(1:42)。ケファはアラム語の岩、それをギリシャ語に直すとペトロになります。イエスは青年シモンの中に、やがて教会の土台石(ペトロ)となるべき素質を見出されたのでしょう。

・やがて、イエスは、「宣教のために働くべき時が来た」ことを自覚され、郷里ガリラヤに帰ることを決意されました。ヨハネの許には、同じくガリラヤから来たピリポもいました。イエスはピリポにも、「私に従いなさい」と呼びかけられ、ピリポも従います。イエスに出会ったピリポは、同郷のナタナエルをイエスの許に誘います。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(1:45)。ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と反論しますが、ピリポは「来て、見なさい」としてナタナエルを連れて行きます(1:45-46)。イエスはナタナエルを見て言われます「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(1:47)。ナタナエルはびっくりします。今までイエスに会ったこともないのに、この方は私を知っておられる。イエスは答えて言われました「私は、あなたがピリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。ナタナエルは出会う前から自分を知って下さったこの方こそメシアであることがわかり、告白します「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(1:49)。

 

2.イエスの弟子となる

 

・今日の物語の中でまず注目したいことは、「来て見なさい」と言う言葉が繰り返し用いられていることです。イエスはアンデレとヨハネに「来なさい、そうすれば分かる」と言われ、二人は従い、イエスがメシアであることを知ります。ピリポもまた「私に従いなさい」(1:43)という言葉に従い、イエスの弟子となります。そのピリポが今度はナタナエルに「来て、見なさい」(1:46)と誘い、ナタナエルもまたイエスにひざまずく者になります。信仰は出会いです。「来て、見なさい」という招きに応えて、その人に会い、その人の話を聞き、自分で確認することにより、出会いが起こります。私たちがキリストと出会う、それが伝道の第一歩です。

・次に証言の連鎖によって伝道が為されているのに気が付きます。洗礼者ヨハネはイエスを「見よ、神の子羊」と弟子たちに証言し、その言葉が二人の弟子をイエスに導き、導かれたアンデレは自分の兄弟ペトロを探し「私たちはメシアに出会った」と証言し、その証言がペトロをイエスに導きます。そのペトロはピリポに証言し、ピリポは知人のナタナエルに証言し、彼をイエスの下に導きます。伝道とは、自分が出会ったもの、見出したものを、隣人に伝えていくことです。ヨハネからアンデレへ、アンデレからペトロへ、ペテロからピリポへ、ピリポからナタナエルへと証言されていき、やがて彼らがイエスに従う弟子集団になって行きます。

・ヨハネ1章から教えられる三番目のキーワードは「留まる」という言葉です。弟子たちがイエスに「先生、どこに泊まっておられますか」と尋ねた時の「泊まる」と言う言葉は、「メノー」と言うギリシャ語です。このメノーはヨハネ福音書に40回用いられる特別な言葉で、「泊まる」と言うよりも「留まる」という意味を持っています。二人は「今夜どこに宿泊するのですか」と言う表面的な問いと同時に、「神の救いの計画の中であなたはどこに留まっているのですか」という内面的な問いをイエスにしているのです。ですから、その日、彼らは「ついて行って」、「イエスがどこに留まっているか」を見届け、「彼らもそこに留まり」、「私たちはメシアにあった」と証言するのです。

 

3.生きる勇気の発信源としての教会

 

・今日の招詞にヨハネ15:4を選びました。次のような言葉です「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない」。「私につながっていなさい」という時の「つながる」は、ヨハネ1章で見た「留まる=メノー」です。木の生命は根であり、その根から幹が伸び、幹から枝が分かれます。枝は根や幹から栄養分や水分をもらうことによって、実を結ぶことが出来ます。幹から離れた枝は枯れるばかりです。私たちは幹であるイエスに留まり続けることによって、豊かな実を結ぶのです。

・イエスの宣教によって、多くの人々がイエスこそ神の子と信じ、教会が生まれました。しかし、生まれたばかりの教会はユダヤ教から異端として迫害を受け、ローマ帝国からは邪教として弾圧され、多くの人々が教会から脱落していきました。本当にイエスにつながっていなかった、留まっていなかったからです。それに対し、危機に直面してもなお、イエスをキリストと告白し神の子と信じる者は、殺されても信仰を曲げませんでした。その弟子たちの死をも恐れない信仰を見て、多くの人々が福音を信じていきます。留まり続けた人々の存在によって伝道の業は進められていったのです。

・私たちはぶどうの幹ではなく、枝です。「イエスに留まらない時」、イエスを離れた時、信仰の実は枯れてしまいます。どうすればイエスに留まり続けることが出来るのでしょうか。「教会に留まり続ける」ことによってです。多くの人々は牧師や信徒の罪を見て、教会に失望し、教会から離れていきます。しかし、教会から離れた時、教会の頭であり命の源であるキリストからも離れるのです。教会に招かれた人々が教会に留まり続けるためには何が必要なのでしょうか。教会に集う人々に与えられる「生きる勇気」を、いただき続けることだと思います。

・先週ご紹介しましたティリヒという神学者は語りました「生きる勇気とは自己肯定ができる勇気であり、受け入れられていることを受け入れること」だと。人はどのような困難の中にあっても、「愛されている」、「必要とされている」ことを知った時、「生きる勇気」を与えられます。「お前はだめだ」と他者から言われなかった人はいないでしょう。自己が否定される経験は誰でもがします。ヨハネの教会も、ユダヤ人共同体から排除され、ある者は殺され、ある者は投獄されていました。しかし、神を信じる人は自己が否定されても、倒れることはありません。なぜならば神の肯定を知るからです。イザヤは語りました「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:4)。この神の肯定があれば、現実が苦しくとも、苦しみが喜びに変わる日が来ることを信じることができます。「神はあなたを愛しておられる、あなたを必要としておられる」、それこそが神から預かった福音です。私たちは神から預かった言葉を伝えるためにここにいます。

・自己肯定こそ人間を生かす道です。経済学者の神野直彦氏は語ります「人間の欲求には所有欲求と存在欲求があり、所有欲求が充足されれば豊かさが実感され、存在欲求が充足されれば幸福を実感する」(神野直彦「分かち合いの経済学」から)。日本が豊かになったのに人々が幸福になれないのは、この存在欲求が満たされていないからです。スェーデンでは、社会サービスを「オムソーリー(悲しみを分かち合う)」と呼びます。神野先生は続けます「人間の生きがいは他者にとって自己の存在が必要不可欠だと実感できた時である、悲しみの分かち合いは、他者にとって自己が必要だという生きがいを与える」。この「オムソーリー」の概念は聖書から来ます。パウロが語る「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12:15)を制度化したものが北欧の社会保障システムです。それに対し、日本の場合は、自己責任が求められ、社会保障の大部分は社会保険で構成され、社会保険料を納めることのできない非正規社員やシングルマザー等の低所得の人々は、生活保護という屈辱の中でしか生きるために必要なものを受け取ることができません。この分かち合いのシステムが欠けていることが、人間の尊厳を損なっています。

・財政学者の井手英策氏は語ります「格差社会が問題なのは、所得格差があることそれ自体ではない。格差が所得の少ない人々が尊厳をもって生きていけない状態を作り出したことが問題なのである。欧州の多くの国では、すべての人にとって大学は無料だし、医療も無料ないし無料に近い。北欧にいたっては年金だってみんなもらえる。全員にサービスを提供すると、みんなが受益者になる。貧しい人を助けることが自分の利益につながる仕組みがある。日本でも医療費を無償化すれば生活保護の半数近くは不要となる」(日本財政・転換の指針)。国立大学学費無償化のためには3300億円が必要ですが、それは消費税の軽減税率というばらまきを止めれば簡単に捻出できます。その気になれば、医療も教育も老後保障も無償化は可能なのです。人間が生きるために必要な育児・教育・医療・老後保障等を、所得にかかわらず受益できるようにするシステムが「分かち合いのシステム」です。

・そしてこの分かち合いのシステムは聖書の考え方から来ていることを、私たちは再認識する必要があります。私たちの教会の今年の標語は「「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12:15)です。これは単なる飾りではなく、私たち一人一人ができる範囲で行動することが求められています。ヤコブは語ります「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:14-17)。教会は本質的に「分かち合いの共同体」であり、その実現を社会に働きかける時、そこに新しいものが生まれていく。教会こそ、人々に「生きる勇気」を与えることのできる場所なのです。

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